死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

徒然草談話

(某所にて)

 

 今日は本の話ということでね、私たまに、小学校や中学校の国語の教科書に載っていた作品群を読みたいと思うことがありまして、大体は思うだけで終わるんですが、今回はことさらに気になったので読むことにしたんです。何を読んだかというと、吉田兼好の『徒然草』です。正確には『すらすら読める徒然草』という文庫本でして、さらに言うと現代語訳だけを読んでいった形になります。邪道かもしれませんが、古語はよう分かりませんのでね。非常に読みやすくてよい本でした。

 

 

 今回徒然草を読もうかと思ったのは、まあ「古典を読もう」というある種の中二病的なところが要因にあるのですが、直接的にはネット上である段の記述を見たからなんですね。それが第85段でして、「ひとのこころすなほならねば」で始まるんですが、こういう話です。

自分は素直な人間でなくとも、賢者を見て、自分もああいう人になりたいものだと羨むのは、これが人情の自然だ。だが、中には度外れに愚劣な人間もいて、こういう人がたまたま賢者を見ると、これを憎むのだ。「見ろよ、あいつ、目の前の利益を得られるのにわざと得ようとしないだろ、あれは廉直の士という評判を得て、将来もっと大きな利益を得ようというのさ。本性を隠し、うわべを飾って、賢者の評判を得ようとしているのだ」などと誹謗する。こんな連中には賢なる人の心などぜんぜん理解できない。それがあまりにも自分の気持や心と違っているので、本当にそういう心の人があると信ずることができずに、あれは偽善だと言って嘲るのである。

(引用元:中野孝次. すらすら読める徒然草 (講談社文庫) (Kindle の位置No.2106-2113). 講談社. Kindle 版. )

狂人の真似だと言って大通りを走ったら、それがとりもなおさず狂人にほかならない。悪人の真似だと言って人を殺したら、その人間そのものがすなわち悪人なのだ。千里を走る駿馬を驥というが、驥の真似をする馬がいたら、それはすでに驥の仲間だ。聖王舜を真似る、学ぶ者がいたら、その人間はすでに舜の同類と言っていい。偽ってでも賢人の真似をする者は、もう賢人なのである。

(引用元:中野孝次. すらすら読める徒然草 (講談社文庫) (Kindle の位置No.2117-2121). 講談社. Kindle 版. )

 この話をどう読むのが正解なのか、そもそも正解なんてものがあるのかは知らないのですが、個人的な解釈としては、性根の腐ったやつはどうしようもない・やらない善よりやる偽善・言霊信仰みたいな感じなのかなと。適当ですが。ただこういう話を読んで一つ思いますのは、現代にも通ずるなあとか、言い換えれば人類は成長していないということかもしれませんが、私はこのように「現代も通ずる」とか「今も昔も変わらない」と感じたときに、面白いなあと思うわけなんです。

 例えば落語も1600年台に安楽庵策伝和尚が作った本が起源と言われております。江戸時代ですね。そう聞くとやっぱり古いように思うわけですが、このときに作られた話が元になって、現代でも演じられているわけです。そしてそれを聞いて、現代人が笑っているわけです。今も昔も笑いの感性、しかもその根っこの部分ていうのは変わらないんだな、と感じられるから私は落語が好きです。笑うだけじゃなくて、泣かせる話もありますしね。言い換えると人の感情を揺さぶる要素は変わらんということです。ちなみに策伝和尚は岐阜県の生まれでして、今でも策伝大賞という名前の大学選手権が岐阜県で行われています。

 落語で言いますと、少し前に「ぎぼし」という話を聞いたんですね。ぎぼしというのは、擬態の擬、お宝の宝、そいで真珠の珠と書いて擬宝珠と読みます。何かというと、橋の欄干にあるまんじゅうみたいな、栗みたいなやつです。もしくは、五重塔の上についてる、アレのことなんですね。で、まさにこの五重塔のてっぺんについてる擬宝珠を舐めてみたいと思う男の話なんですよ。皆さんどう感じられるかわからないですけど、私はこの話を聞いた時、もう頭から「面白いなあ」と思ったんですね。聞くところによれば、話自体は明治の作品らしいのですが、元ネタはさらに遡り1700年台の絵巻物とのことで、それと落語の構成はまあ全く違うのかもしれませんが、ともあれ「この話はどういう状況でできたんだろうか」とは考えずにはいられないのですね。明治期にこれが面白いだろうものとして作られたのかあと。ほんで今聞いても設定だけで面白いわけやないですか。今と昔で面白みに通ずるものがあるということこそが面白いなあと思うわけです。

 

 面白いで言いましたらね、徒然草の40段に「栗しか食わない娘」の話があります。大層美人な娘さんがいて、いろいろな人が求婚したのですが、この娘さんが栗しか食べず、コメの類を食べなかったので、お父さんが「このように異常な人間を嫁がす訳にはいかない」といって、決して許さなかった、という話です。非常に意味がわからない。単に嫁に行かせないための方便なのかもしれませんが、難しいことはさておいて、意味が分からなくて純粋に面白いじゃないかと、と私は思うんですね。

 

 それはさておいてですが、基本的に吉田兼好は、「人生は短い」という感覚を持っているようで、というか実際当時の短いものだったのですが、そういう観点から書いている段があります。第188段ですが、同じく要約するとこんな感じです。

若いうちは、何事においても世に知られるようになり、大きなことを成し遂げ、芸能をも身につけ、学問もしようと、これからの長い生涯に期待することを心に抱きながら、しかしまあ先はまだまだ長いのだとのんきに構えて、まず、さし当りその日その日に起ることにかまけて月日を送るうち、どの一事をも成し遂げられずにわが身は老いてしまう。ついに、何事の上手にもならず、考えていたような立派な暮しもできず、といってもう後悔しても取り返せる年齢ではないから、車輪が坂を走り下ってゆくような勢いで衰えてゆく。

(引用元:中野孝次. すらすら読める徒然草 (講談社文庫) (Kindle の位置No.1910-1915). 講談社. Kindle 版. )

 まあここだけでもかなり実感があると言いますか、そうだなと思い肌寒くなってくるわけなんですが、この後にはこんな風に続きます。

だから、一生のうちで、主にこれをやってみたいと思うことがいくつかあったら、そのうちどれが大事かをよくよく考え較べてみて、これが第一と思うものを決めて、ほかのことはすべて思い捨てて、その一事にはげまねばならない。一日のうち、一時のうちにも、さまざまのことが起るだろうが、その中で少しでも価値のあることを行い、それ以外のことは捨ててしまい、自分の大事を為さねばならない。どれをも捨てまいと欲を出したのでは、一事だに成就しないであろう。

(引用元:中野孝次. すらすら読める徒然草 (講談社文庫) (Kindle の位置No.1916-1921). 講談社. Kindle 版. )

 こういう具合なんですね。この段に書いてあることと言いますのは、その内容自体もああそうだなと胸に響くところがあるわけでありまして、特に当時の人って平均寿命が40代ぐらいだったそうですから、今よりも一層そういうことを思ったのかなあと。私なんていつも、このまま老いて死んでいくんだろうなあとどっかで思っているところがあって、一方でそれはやだなあという風にも思うわけなんですが、少し斜に構えますと、今の自己啓発書にも書いてそうな内容ですよね。あるいは情報商材、怪しい情報商材の勧誘サイトに書いてそうな内容なわけです。有限の時間を使ってそんなつまらないことやってていいんですかと。命を燃やして行きましょうと。意識高く言いそうなことですよね。そこが面白いなあと思うんですね。つまり今の人も昔の人もやっぱり考える事っていうのはあまり変わらないんだなと申しますか、昔の人の言葉が現代人の胸に突き刺さる、突き刺さった結果転がされるのかもしれないのでいいことかどうかわかりませんが、ともかくそこら辺の感覚が変わらないということが面白く感じるわけです。

 

 で、私は現状において、人生をかけてやり遂げたいことが一つあるんだとは言えないわけですが、私の幼い時の夢と言うか目標というのが、図書館の本を死ぬまでに全部読むというものでした。ただこの目標というのが物量的に無理というよりかは、私の好き嫌いが多すぎて、読みたくない本の方が多いものですから、そもそも達成できないということになるんですけれども、ふとですね大学時代思い出しまして、大学時代にですね、今以上に本を読める期間っていうのはないんだろうなと思いまして、一年間で少なくとも100冊は読もうという風に目標を立てて、実際読んだんですね。ジャンルとしては全然崇高ではなくてですね、本当にミステリから普通の小説からライトノベルからもう何でもいいんですけど、とにかく本当に何でもいいから本を100冊読むんだというふうにしてやっていたわけです。決して読んだ内容が頭に残っているわけでもないんですが、それを思い出しまして。今でも読みたい本というのは結構いっぱいありまして、時代的に電子書籍が非常に流行っているのですから、私も電子本棚上においては200冊ぐらい、これ漫画込みですけれどもあるんですね。ほとんど読めてないんですよね。これを潰して行こうかなと、でっかい人生の目標はいまだに私ないですけれども、いっぱい本を読む、読みたいんだっていう気持ちに関しては嘘をつかずにいった方がいいんだろうなと思いまして、これから本を読んでいきたいと思います。図書館も活用すると、税金で本が読めていいですね。

 皆さんも是非ですね、面白い古典の本がありましたら、かつ読みやすいものがありましたら、私もあの岩波文庫のですね、今さら文字のちっちゃいやつを色々読んでいくっていうのは、それはそれでしんどいなあと思うところがあるので、新訳版あたりで、面白いものがあったら是非とも教えていただきたいと思います。読みますのでね。というわけで今日は本の話でした。