死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

真夜中のラッパー

 夜23時ごろ、会社からの帰り道を歩いていると、どこからともなく「音」が聞こえてきた。自然音ではない、イヤホンから漏れ出ているようなシャカシャカ音。辺りに人の姿はない。そもそも、街灯がぽつりぽつりと立ち並ぶ夜道であるから、周りに人が居ないかどうかは定かではないのだが。少なくとも、近くには誰もいない。にもかかわらず音が聞こえる。ということは、これはイヤホンではなくスピーカーを通した音なのだろう。シャカシャカシャカシャカ。聞こえている。

 

 歩みを進めるにつれ、シャカシャカ音は次第に大きくなっていった。それに伴い、どうやらシャカシャカ音だけではないらしいことが分かってくる。よりはっきりとした野太い音。それは人の声である。男の声が聞こえてくる。彼は歌っているのだろうか。耳を澄まして聞いてみても、何を言っているのかはよく分からない。しかしそのリズムには聞き覚えがあった。声はライムを刻んでいた。

 

 ラップだ。夜も更けたこの時間に、誰かがバイブスを上げている。依然姿は見えぬまま、歩くにつれ、声はますます大きくなっていく。それでもやはり、何と言っているかはよく分からない。早口で聞き取れないのである。別に誰かに聞かせようという気はないのかもしれない。ただ流れるように、言葉を紡いでいる。

 

 そうこうしているうちに、声との距離はますます近づいていく。そしてある瞬間、声の主が街灯によって照らし出された。オーバーサイズの出で立ちで、キャップを被り、身体を揺らし、手と口がせわしなく動いている。シャカシャカ音の出処は、その手に持ったスピーカーだったらしい。

 

 ラッパーだ。これまでの人生で実物に出会ったことはなかった。しかし、今目の前にいる。そしてもうすぐ消えようとしている。彼は私のことなど目もくれず、暗闇に向かって歩いていった。音も声も、今度はどんどん離れていく。その間、一つも途切れることなく。