死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

なぜ君は残業するのか

 22時を前にして、ようやく仕事に区切りをつけ始める。実際にはつけようがない。しかし、今日はもうここにはいられない。幸せなことに、私はまだ法にも労働組合にも守られていた。

 昼から降っていた雨は、いつの間にか止んでいたらしい。まだ濡れている地面を速歩きで進んでいく。社屋から出たからには、一秒でも早く家に帰りたい。走ったってよい。肺が動く限りは。

 

 

 凍てつくビル風が吹きすさぶなか、信号が青になるのを待っていた。1分、2分。車の姿は見えないが、法を破るのも憚られる。スマホを見ようか。しかし手袋を外すのが煩わしい。寒さを前にして、人はただ、肩をすくめて立ち止まることしかできない。

 

 

 

「なぜ君は残業するのか」

 

 

 

 声のした方を向くと、黒いベンチコートに身を包んだ老人が立っていた。実際は老人でないかもしれない。暗闇に映える白髪を見てそう思っただけだった。風に煽られ涙目の私に、その顔ははっきりと見えなかった。

 

 

 

「なぜ君は残業するのか」

 

 

 

 なぜ私は残業するのか。

 目の前に仕事があるから。一言で言えばそうなるだろう。こなしてもこなしても、こなすとこなさざるとにかかわらず、上から横からやってくる。もはや自転車操業ですらない。しかし、仕事がある以上は捌かなければならない。それは考えるまでもなく、当然のことではないか。

 

 

 

「なぜ君は残業するのか」

 

 

 

 なぜ私は残業するのか。

 仮に残業しなかったとすれば、何が起こるだろう。滞りに滞ったタスクは、そのうち破綻することになる。いや、既にそうなっているのかもしれないが。

 

 

 視界の片隅で光が点滅している。結局車は一台も通らなかった。信号も、指示する相手がいないでは寂しかろう。自分が居ても居なくても、周りに影響が及ぶことはない。はたして誰に向けての投射であるのか。しかし役割を与えられている以上は、それを果たさなければならない。

 人間も同じようなものではないか。

 

 

 信号が青に変わった。凍りついた下半身を無理矢理に動かす。横断歩道も半ばに差し掛かった時、背後から声が聞こえた。

 

 

 

「なぜ君は残業するのか」

 

 

 

 残業代を稼いだところで、それを使って守るものがあるわけでも、欲しいものがあるわけでもない。良く言えば責任感、それとも使命感か。しかし、それは一体に誰に対するものなのか。何に対するものなのか。

 

 

 

「なぜ私は残業するのか」

 

 

 

 横断歩道を渡り終え、私はポツリとつぶやいた。後ろを振り返ると、老人の姿はもうなかった。