死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

日記サイトを巡る旅路~完結編~

 

 

 はてなインターネット文学賞用にこんな記事を書いた。

 

sorobanya.hatenablog.com

 

 

 その後、インターネットの大海をさまよい続けて数ヶ月。新たな痕跡を見つけ出すことはできず、探索は打ち切られようとしていた。いつだって、インターネットには何でもある。しかし、手がかりなしでは、何にもたどり着くことはできないのだ。現実はかくも厳しい。

 

 結局私は探索を諦め、部屋を片付けることにした。なぜか。汚かったからである。残業時間と比例するように雑然さを増した我が部屋は、もはや足の踏み場もない状態だった。電脳世界に潜っている場合ではない。残念ながら、私が生きているのはこちらの現実なのである。

 

 

 片付けついでに、保有物の整理を行うことにした。私の部屋にはとにかく物が多い。なぜか。物を捨てないからである。転居を経て実家に帰ってきた私は、あいも変わらず、十数年来人生をともに過ごしてきた物々に囲まれていた。

 部屋は心の写し鏡であるという。物で溢れているということは、心に隙間がないということだ。言い換えれば、古きがスペースのほとんどを占め、新しい物事の入る余地がないということである。

 そう考えると、常に肩に重しが乗っているようにも感じられた。十数年の老廃物が身体と心に溜まっている。身軽にならねば。それは一種の強迫観念でもあった。

 

 

 死蔵された書籍類、あったことさえ忘れていたゲームソフト、可能性と芸術性に満ちた幼少期の工作・美術作品、二度と日の目を見ないであろうおもちゃ類。あるものはメルカリへ、あるものはゴミステーションへ、あるものは友人の元へ。ありとあらゆる物品を生活から取り除いていく。部屋の空き容量が増えるたびに、頭の中が軽くなっていく気がした。断捨離とは宗教であり、思想であることを実感した。人を人としてかたち作っているのは、あらゆる性質の余裕である。

 

 

 

 物が減ると物が出てくる。見えなかったところが見えるようになるからだ。これも余裕の表れと言えるかもしれない。または世の理である。デッドスペースとなっていた本棚の奥の奥。それはそこから見つかった。

 

 

 

 

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HPDATE』と書かれた謎のCD。盛大なミススペルだが、当時の私を笑ってくれるな。小学○年生が必死で書いたものなんですよ!? というわけで、私はすべてを思い出した。このCDには、当時ホームページの作成に用いたファイル群が書き込まれている。懐かしき日の『HPDATA』なのだ。

 

 平成に取り残された私が、このディスクの中にいるかもしれない。インターネットからは切断された電子の世界に。どこに行けるわけでもなく、物理メディアに閉じ込められているのだとすれば、一刻も早く助け出さなければならない。

 

 居ても立ってもいられず、私はCDを外付けのドライブに突っ込んだ。劣化して読み込めなくなっているのではないか。現実的な不安が私を襲った。しかし、杞憂も杞憂だった。まるで新品であるかのように、CDは滞りなく認識された。そして、そこにはすべてがあった。

 

 

 

 

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 ここが平成か?

 

 

 

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 これが平成なのか??

 

 

 

 

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 何を言ってるんだ???

 

 

 

 

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 一体どうしたんだ????

 

 

 

 

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 どういうことなんだ?????

 

 

 

 

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 そうか……平成は……終わったのか……。(記録はここで途切れている)