死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

腱鞘炎の男

「腱鞘炎ですね」

「はあ」

 医者の診断に男がとぼけた声で反応したのは、腱鞘炎なる病気を産まれて初めて聞いたから、というわけではなかった。むしろ、手の痛みとしびれに悩まされ、彼自身は当初からその可能性を疑っていた。しかし、ついぞ2週間前に同じく病院を訪れた際、目の前の医者は、はっきりと腱鞘炎ではないと言っていた。それとの整合性に理解が追いつかなかったのだった。

「でも先生、前回腱鞘炎ではないと仰ってましたよね。腱鞘炎ではしびれは出ないって」

「ただ、今の症状を見ると腱鞘炎ですね。ばね指が出ちゃっているので」

 その点は医者の言うとおりだった。3日ほど前から、男の右手小指には異変が現れていた。起床時に指がカクカクとする。数分経つとスムーズになる。この日に再度医者を頼ったのもその症状のせいだった。

「もともと人間の体って40年ぐらいしかもたない前提で作られてるんですよ。○○さんまだ20代ですよね。今からこの状態だったらこれからどうするんですか。」

 男はその言葉にどう答えればよいのか全く分からなかった。むしろどうすればいいのかを教えてほしい。そう喉元まででかかったのを押し留め、しかし押し留める必要もないと思い直し、なるべく声を荒らげないように医者に尋ねた。

「どうすればいいんしょうか」

「それは○○さんにしか分からないですね」

「禅問答ですか」

「いえ、そういうことではなく。腱鞘炎って要するにオーバーユースなんですよ。だから使わなければ治るものなんです。痛みがひどければ注射を打つとか、手術を打つとか。私達はそういうことはできますけど、そこまでひどくしないことが重要です。そのためには、○○さんが日々の生活を改善するしかないんです。そしてそれができるのは○○さんだけなんですよ」

 良い慣れた文句なのだろう。流れるような医者の言葉に、男は少しばかりの感動を覚えた。そして、やはりなんと答えればよいのか分からなかった男は、「はあ」と再び気のない返事をした。

 

 家へと帰る道すがら、男は医者に言われた治療法を頭の中で反復していた。手指を使わないようにせよ。端的に言えばそれだけである。

 しかしながら、それは現実的に不可能ではないか。男は日々の生活を思い返してそう思った。仕事中はマウスとキーボードに常に触れているし、スマホもゲームのコントローラーも、料理や買い物、食事に加えて歯磨きのような作業にも、何から何まで手指を使っている。

 手指を使うなというのは、要するに何もせずに寝ておけと言っているに等しいのではないか。そう考えながら男は、自宅の玄関扉に鍵を差し、ほらここでも手を使っているじゃないかと小さくため息をついた。

 

 窓を開け、すっかり熱のこもった室内に風を入れながら、男はこれからのことを考えることにした。医者の言っていたことに間違いはなく、腱鞘炎を治すには安静にするのが一番の薬である。

 一日のうち、一体何に手指を使っているのか。言うまでもなく仕事である。ということは、仕事を辞めるのが手っ取り早い。そして多くの時間を寝転がって過ごす。そうしているうちに手指は元の状態に戻る。完璧な計画だった。今すぐにでも実行すべきだろう。

 別にベッドの上で過ごす必要もない。とにかく手指を使わないようにすればよいのだから。久々に旅行に行くのもよいのではないか。

 この2年間、訪れたくても叶わなかった場所がたくさんある。ワクチンを打ってからにはなるだろうが、これまでの鬱憤を晴らす時が来たのかもしれない。移動は電車で、ボーッと座っていればよい。スマホに触らなければ、手指を休めることは容易い。

 しかしそれがあまりにも夢物語であることを、当然ながら男は理解していた。仕事を辞める? 体調の問題から退職すること自体は、残念ながら珍しいことではない。しかし、辞めてその後どうするというのか。痛みが引くまでどれぐらいの時間がかかるかも分からない。そしてこのコロナ禍において、スムーズに職が見つかるのか。

 考えれば考えるほど、男には不安が波のように襲いかかってきた。そもそも、そのような行動がとれるのであれば、もうやっているだろう。今できていないということは、すなわちそういうことなのだ。

 

 仕事での手指使用を避けられないのであれば、あとはその他の時間で可能な限りカバーするしかない。言い換えれば、それはネット、ゲーム、読書、勉強等にできるだけ触れないようにするということに等しい。

 目と耳は自由だが、それらを使って何かをしようとすると、その前段として手指を使うことになりがちだ。だから結局は何もしないのが一番、ということになる。

 とはいえ、「何もしない」とは一体どうすればいいのだろうか。男の脳裏にはくまのプーさんがよぎった。彼は何もしないをすると言っていた。彼は全てを知っている。

 そのとき、男は天啓を得た。考えるまでもなかったのだ。プーさんこそが、男の目指すべき理想像であり、到達すべき目標なのだった。

 ではプーさんになるにはどうすればいい? 男は答えを持っていなかった。競争厳しいエンタメ業界の第一線で何十年も戦っているのだ。そのような存在に一朝一夕でなれるわけもない。

 もしかすると、これは一生をかけて取り組むテーマとなるかもしれない。男は静かに打ち震えていた。それは男の人生において、初めて明確な指針が立ったからであった。

 ひとしきり考えた後、めぼしい答えが浮かばなかった男は、そういえば最近食べてなかったなと思い立ち、はちみつを買いに行くことにした。