死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

今日もテレビはそこにいた

 テレビが捨てられていた。3階建てアパートのゴミ捨て場。建物の前の道は私の散歩コースである。朝か夕方か、天気と予定見合いだが、休日にはおおむねそこを歩く。

 ゴミ捨て場と言っても、看板による表示はなく、屋根や敷居で区切られているわけでもない。ビンやカンを捨てるための青いカゴが2つ、無造作に置かれている。そのカゴがあるから、そこがゴミ捨て場だと分かる。そしてカゴの横にテレビが置かれている。

 ゴミ捨て場にテレビが置かれている。となれば、それは捨てられているということだろう。日光によって変色した白ボディの液晶テレビが、こちらに背を向けて鎮座していた。

 もっとも、私はそのテレビが昨日今日に現れたものではないと知っていた。いつからそこにあっただろうか。2,3年前どころではないはずだ。なぜならば、私がそう記憶しているからだ。

 全く説得力がない。人の記憶ほど信用できないものはない。しかし、私の散歩コースはもう何年も基本的には変わっていない。だからもう何年もそこにあったはずだ。

 やはり何の説明にもなっていないが、歩く横目でテレビを見て、「まだあるな~」と思った記憶が何度もある。いつからかは分からない。きっと、もう何年もそう思ってきたはずだ。はずでしかない。でもきっとそうに違いない。

 ともあれ、捨てられたはずのテレビは、もう何年も回収されないまま、身動き一つせず、相変わらずこちらに背を向けて、ただ座っている。

 長らく回収されていないのは、なにか理由があったからに違いない。と言っても、おおかた処理券を貼っていなかったか、もしくは手数料が足りなかったかだろう。それ以外に何があるというのか。

 しかし、改めて適正な処理券を貼る人間は、もうどこにもいないのかもしれない。そもそも、捨てた本人が、まだここに住んでいるかもわからない。さらに言えば、そもそも住民が廃棄したのかどうかも。人様の土地に捨てられたテレビの由来など、何も分からない。

 ただテレビはそこにある。ではいつまであるのか。行政が善意で引き取ることはない。代わりに処理券を貼るようなお節介住民もいないだろう。是非はともかく、ジャンク好きが勝手に持っていくかもしれない。しかし、誰も咎めはしないとしても、小さくない電気機器を拾い上げるというのは、何となく気がひけるのではないか。

 もとい、誰かにとって価値があるならば、さっさと持っていかれているだろうとも。そう考えると今さらな話だ。理由があって、テレビは今も残っている。

 遠目で見る限り、樹脂部分の変色以外に目立った汚れはなく、端子も錆びてはいない。もしかするとパネルが盛大に割れていたりするのかもしれないが、確認しようがない。思えば、私は彼の/彼女の顔を見たことはない。

 外環境において、テレビの寿命はどの程度なのだろうか。あの猛烈な台風をも乗り越えて、テレビはそこにいる。幾度となく雨風にさらされているのだから、テレビとしての機能はとうの昔に失っているのかもしれない。

 しかし外殻は異なる。素材のあれこれは知らないが、テレビの形を維持できないほどになるまでには、もうしばらくどころか、長く時間がかかるに違いない。ただ、朽ち果てて、もはや名実ともにテレビとは言えなくなったとしても、やはり彼/彼女はその場にいるような気がする。

 隣のカゴにはカン・ビンが詰めこまれ、業者によって回収されていく。しかし、テレビは違う。テレビはただそこにある。テレビはテレビでなくなったとしても、誰からも干渉されることなく、そこに存在している。そうして旅立つカン・ビンを背中で何度も見送っていく。

 特に珍しい情景ではないだろう。ありふれた住宅街の一風景。私がこの道を歩かなくなるのが先か。テレビがいなくなるのが先か。今日もテレビはそこにいた。