死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

平日の街並みを見ることはなく

一般的な日勤仕事をしていると、平日は家と会社の往復で終わるのが常である。玄関を出て、駅まで歩き、電車に乗り、感情を無にしながら職場へと向かう。もう少し人間らしかった気もするが、今となってはその面影もない。外にいる間、私は働く機械であり、働く機械とは私のことである。

 

良く言えば規則正しい生活、悪く言えばルーティーンと化した人生であるがゆえに、日々目に入る風景はそう変わりない。見慣れた顔ぶれが、私と同じように疲れた顔をして、駅へと歩いていく。今日の彼の革靴の色は何か、もはや着回しの法則すら分かる。黒と茶色を交互に履く。私も同じだ。一生関わり合いを持たないであろう、素性も知らないサラリーマンに、一方的な親近感を覚える。今日も頑張って生き抜きましょう。

 

そんな一労働者でも、平日に休みをもらえることがある。有給休暇というやつだ。ありがてえ。有休は権利? 正しい。使わないと損? おっしゃるとおり。しかし、有休とはエリクサーみたいなものだ。どうせならちゃんと使いたい。連休につなげて旅行などしたい。今の世ならば、積みゲー積ん読を消費するとか。だから後にとっておく。そして休暇は使われぬまま流れていく。なぜそうなってしまうのか。計画的に休暇を取得するには、休暇を計画する必要があるからだ。そして休暇を計画するのにもまた、休暇ないし休息が必要なのだ。

 

休暇がエリクサーと違うのは、使わないとそれはそれでお叱りを受けてしまうところだ。ありがてえ。しかし、休暇を取らされるというのもそれはそれでストレスである。贅沢な話か? そうかもしれない。だが、コントローラブルな方が良くないか? そういう話ではない? そうかもしれない。いずれにしても、唐突に休暇は発生する。生えてくるのだ。生える前に死んでしまうこともあるが。

 

突発的な休暇にできることといえば散歩である。別にしなくたっていい。あえて外に出る必要もない。しかし目は覚める。覚めてしまったら最後、生活を始めなくてはならない。中休みには結局のところ、翌日に向けた体調管理が必要になる。明日はまた仕事なのだ。規則正しい生活を送れ。要するに日光だ。日光を浴びなければならない。体内時計を狂わせてはならない。

 

いつもよりは遅い時間に家を出る。60分違うだけで、目の前に広がる世界は変わるものだ。私はそれをムジュラの仮面で学んだ。やはり任天堂だ。この時間に、いつものサラリーマンは歩いていない。それどころか、知らない人ばかりだ。なにせ登校中の子どもが列をなして歩いている。おっさんみたいにはなっちゃいけねえぞ。日本の未来は君たちにかかっている。優しい世界を作ってくれ。口には出さない。事案になるからだ。大人も随伴してるしね。それにこんなご時世だから。でも、会釈ぐらいはしておこう。おはようございます。

 

ところどころで黄色い旗を持って立っている、彼ら/彼女らは毎朝こうして子どもを見送っているのか。自分の生活もあるだろうに、自己犠牲の為せるわざか。人の親になると、それを当たり前と感じられるようになるのか。そんなことはないんじゃない? 私の中の独身者が語りかける。そういうものだよ。私の中の既婚者が語りかける。後者は想像である。というと、さも前者は現実に存在するかのようだ。正しくはどちらも空想の産物である。

 

そぞろに歩いていると、硬いものを削る音が聞こえてきた。建物の解体工事である。そもそもここが解体されつつあることを知らない。通勤時間帯にはまだ作業が始まっていないからだ。それでも外観で分かるのでは? 防音シートと足場で包まれているぞ。しかし知らなかった。行きは建物を見るほどのエネルギーがなく、帰りは暗くて目につかない。更地になって初めて気がついたかもしれないし、そうなってもなお、分からなかったかもしれない。

 

見えないものが多すぎる。見ようとしないことが多すぎる。とはいえ見たところで何かがあるわけでもなし。私がいなくても世界は回る。私が観測しなくとも世界はある。それでも、きっと見たほうがいい。知ったほうがいい。つまらないことでも、そうすることで私の世界が動く気がする。広がる気がする。気がするだけだが。そうは言っても、見ずに終わってしまうのだが。しかし、見ずに終わらなければ、一歩にはなるかもしれない。何かの一歩には。世界は今日も動いているよ。