死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

コロナ雑記(2021年4月版)

家にいるからといって暇なわけでもなく、やりたいこともやらなければならないこともあるわけだが、それらタスクの一つとして、普通の日記を書こうと思っていた。記録ないしは備忘として。端的に言えばコロナの話である。


関西の一部府県に出されていた緊急事態宣言が解除されたのは2月末。ついぞ2ヶ月前のことである。もとい、そうだったらしい。あまり意識していなかったというのが正直なところだ。「意識していなかった」というのは、宣言が出ていようがいまいが、個人的にとりうる感染対策はそう変わらんだろうと思っていたからだった。と、さも対策に気を使っているかのような記載をしているところ、それは事実であったものの、相も変わらず普通に通勤していたので、一番強かったのは「電車の乗車率が増えなかったらええなあ」という気持ちだった。


3月を迎え、個人的な業務量が右肩上がりに増え、時間外労働が積み上がっていくのと同じくして、大阪の感染者数も増えていった。そうこうしているうちに蔓延防止措置が適用され、飲食店の営業時間は20時までとなった。


散々報道されていたことでもあるが、個人的に印象的だったのは、缶チューハイ(ビールでもよい)を片手に、屋外で談笑する人々の姿である。そもそも、日勤のサラリーマンが時短の世でまともに酒を飲もうと思えば、遅くとも18時には退社を決め込み、ダッシュで店に駆け込む必要があるわけだが、それだけでは満足できない人がいるということだろう。自主二次会である。


22時を過ぎた頃に会社を出て、駅へと向かう途上、むしろ平常時より街に活気があるのではないかとの錯覚にすら陥った。もちろんこれは言い過ぎだが、いつもなら人がいないところに、その姿が見えるというのが印象的だったのだ。私が気にするようになっただけかもしれない。ともあれ、公園のベンチ。橋の欄干。改札前の柱。体重を預けられるならどこだっていい。缶を置けるスペースがあればなおよし。そこが二次会会場になる。


それというのは、子どもの頃に夜の公園で遊んだ感覚と近しいものなのかもしれない。家に帰らないといけない時間なのに、帰らない。少し違うか。本来なら室内ですべきことを外でやる。こちらのほうが適切か。そういうのは背徳的で楽しい。と、変に理屈をつけなくても、花見にバーベキューと、屋外で飲食する文化には枚挙にいとまがないので、そういった趣向が日常にも及んできただけな気もする。

 

有識者曰く、飲食店に足を運ぶのは、単に空腹を満たし、アルコールを摂取するためだけではなく、ある種の非日常感を味わうことも目的の一つであるらしい。一般論かは知らない。何にしても、そのような需要があるとすれば、「そこで酒は飲まんやろ」という場所で飲む酒は格別においしかろうし、その選択肢が人々の中で当然のものとして生じてくる状況は、非日常が日常となっていることの証左であるようにも思えた。


気づけば三度目の緊急事態宣言が発出され、ゴールデンウィークに突入している。基本的に長期休暇中は家から出ない私にとって、宣言下であるかないかは実質的にあまり関係はない……と言いたいところだが、「外に出ようと思えば出られる」のと「中に居ざるを得ない」のでは、本質的に状況が異なるとも思う。気持ちの問題かもしれないが、気持ちの問題は大切だ。


幸運なことに、日々の生活に直接的な影響がでているわけではない。しかしそれでも、スリップダメージのように、じわじわと蝕まれているような感覚がある。閉塞感とか無力感とか。そういう類の何かである。頭と心のどこかに、少し重いものがある。


救急車のサイレンが以前より気になるようになった。パトランプを光らせながら、私の目の前を通り過ぎていく。高速道路の入口に向かう車内には、すでに患者が乗っているのか。それともこれから迎えに行くのか。何より、彼/彼女は無事なのか。


同僚の友達だとか、はたまた友達の親族だとか、そういった距離感の感染事例を耳にすることが増えた。バトロワで安全地帯が徐々に小さくなっていくような。もとから安全地帯などないという話ではあるが、感覚として、着実に距離は近づいてきている。はたして逃げ切れるのだろうか。苦しいのも、苦しんでいるところを見るのも、御免被りたいものだ。