今年(去年)も素敵な記事ばかりでした。
最初Twitterで一言感想を書いていこうと思っていたのですが、後に見直せたほうがよいかしらと考えてこちらに書いてます。大体は感想という名の私信です。
記事の感想記事というのは、何やらコンテンツの再生産のようにも思われますが、インターネットなので大丈夫だと思います。(?)
と、昨年末から書いていたものが今になって書き終わりました。というわけでGo! Go! Go!
(言及NGな方がおられましたら該当部分削除しますのでお気兼ねなくお申し出ください)
「雪」とか「冬」ってどうしても寂しさがつきまとうように思います。多くは寒さのせいなんでしょうが、基本的に薄暗い情景が浮かぶんですよね。一方で、「クリスマス」とか「バレンタインデー」とか、イベント単体を取り出すと途端に明るくなるのが不思議なところ(別に不思議でもない)。
『Angel Snow』については初めて聞きましたが、おっしゃるとおり楽しい一曲ですね! 個人的にはただ楽しいだけではなく、ちょっとした冬み(とは)を感じさせる部分もあるように思いました。サビとか…若干こう郷愁を誘うといいますか。それは田中秀和さんの妙なのかもしれませんし、私のネガティブ解釈なのかもしれません。というわけで、私からは放課後ティータイムの『冬の日』をゆき曲として挙げさせていただきたいと思います。
そんな流れの中で披露されたのが『ゆき模様 恋のもよう』で、『花は咲く』の中で表現されていた想いにもやさしい歌声で寄り添いつつ、華やかな音でショーの空気の中に戻っていく様をみて、なんてやさしさに満ちていてキラキラした曲なんだろうと思ったのを覚えています。
完全同意
耳が寂しくても歌ものをBGMとして聴くことができない私にとって、劇伴音楽は非常にありがたい存在です。そして劇伴は作中の場面にあわせて作られるはずなので、現実にもぴったりあう時があるんですよね。いろいろな場面に適した劇伴があるということは、それだけ作中にもいろいろな場面があった、ということなのでしょう。
さて私は何を聞いていたかしらと確かめてみましたら、近づいていく距離、気持ちを一つに、ブレイクスルー、ウォーミングアップぐらあたりが好きなようです。
物語を紡いでいただいてありがとうございますの気持ちでした。WUG新章の主人公はあくまでもWUGちゃんでした(と解釈)。もし次があるのなら、やはりランガちゃんを中心に描くことになるでしょうか。
本作では、WUGちゃんの通った道をランガちゃんが歩んだとしたら、といった視点があるように思いました。先輩になったWUGちゃんがどのようなアドバイスをするのか。それを受けたランガちゃんはどのように前に進んでいくのか。結論は同じでも、その過程はきっと違うのでしょう。
第4期では、「WUGちゃんと同様の障壁を超えた後」のランガちゃんの活躍を描いてほしいところです。あとはWUGちゃん解散までの話を劇場版でやりましょう。(妄想)
一個人をコンテンツとして見られるのか、ということではないかと思います。ちなみに私にはできません。その意味で、やはりその人自身が好きというかは、まずコンテンツが好きで、次に個人について……となるのかもしれません。
と言いつつ、私がWUGに興味を持ったのは中の人起因だったわけなので、考え方の移り変わりがあっただけのようにも思います。「その人が出ているから面白い」ではなく、「面白いものにその人が関わっていた」の方が単に私好みであるということなのかなと。
圧倒的資料的価値。個人的には最後と知りながらも予定が合わず、さらにはコロナに怯えだしていたので参加できなかった無念。記憶を記録として残していただけるのは本当にありがたいことです。
絵の力って言うまでもなく大きいと思うんですね。何かの魅力を伝えるにあたって、これ以上の手法はないと申しますか。文字のほうが熱量は伝わるかもしれませんが、興味のない人には引っかからない。動画や音声は再生するかどうかのハードルがあります。その点絵は強い。そしてそもそもひこさんの絵は魅力に溢れているわけなので、強い×強いで強い²なんですね。だからひこさんの絵が3月8日に連れてきた人の数って少なくないと思うんです。(二年越しの気持ち)
「やってみたい」と「やってみよう」には、意外でもなく大きな壁があるように思います。その一歩を踏み出せる人を私は心から尊敬するわけです。これからも(もちろん無理のない範囲で)「やりたいこと」を昇華させていくお姿を、3本ぐらい離れた通りから応援しております。
本作では別の可能性を描くことによって、翻って今ある現実が奇跡的な選択の結晶であるのだと改めて示されているように思いました。今日という日は、あったかもしれない日を全て切り捨てた結果として成り立っています。それが果たしてベストであったのかどうかは全く関係しません。ただ結果として存在しているのみです。
もしも二次WUGが存在していなかったとしたら。根本的な状況の転換は、私達に一つの可能性を示唆します。コンテンツに引っ張られないことで、今もなおユニットは存在しているかもしれない。一方で、同じだけの期間活動を継続できていなかった可能性(例えば、より早期に解散している可能性)もあります。
どうするのが一番幸せな選択だったのでしょうか。これには、「誰にとっての幸せであるか」との観点も含まれます。ただ、「楽しいだけがWUGではない」とするのであれば、彼女たちの選択はやはり妥当だったのでしょうか。
「そんで、幸せになれたかい?」
さて、どうでしょうか。
全てを「ご縁」の有無で整理するのは乱暴と言わざるを得ないのでしょうが、どうしたって人生そういう部分があるのも否めません。私がWUGに出会ったのはユニット活動最終年度でしたが、何かが違っていれば活動終了まで知ることもなく時を過ごしていたことでしょう。
結論的に私は幸運だったとの結論になる一方、今この時に出会うべきものと出会えていない可能性は残ります。出会えていないのであれば、別に出会う必要がないということではないかとの槍が飛んできそうですが、自分の側で満たすべき条件(なるものがあるとして)を満たしていない可能性もあるので、そこは気をつけなあかんなあと思いました。なお、どうすれば気をつけられるのかは分かりません。ためらいは捨てるべき場合もある、といったところでしょうか。
その昔、私はいわゆる聖地巡礼の魅力がよく分からなかったのですが、WUGを通して幾ばくでもそれを実感するに至りました。土地を介して作品を感じにいく、あるいはその逆かもしれませんが、無理に言語化する必要もないかもしれません。ともかく、初めて仙台駅に降り立った時、「仙台駅に自分がいる」事実だけで言いようもなく面白かったのを覚えています。
「そこに訪れてみたい」と思わせる力とは一体何なのでしょうか。決して作中に登場した地には限られません。どういう景色があるのだろう。どういう生活があるのだろう。そういうことを知りたいと思えてくる。土地自体の魅力があるのはもちろんですが、そこに私は創作物の力みたいなものを感じる次第です。
あとは、連れてきてくれたのはWUGちゃんだとしても、行こうと思ったのは自分であるわけで、そう思えた自分を褒めていく方向で考えると人生豊かになるのではないかと最近思いました。(報告)
いつまで展示されているのだろうか。いつまでもここで私たちを迎えてほしい。
願わくば。
前々から往年のテキストサイトスタイルな文章にいつも笑かされているのですが、本記事もフルスロットルで大変ありがたい限りです。いつも構成から何からしっかりされているなあと思っているのですが、何を語っても野暮になる気がするので、これからもたくさん記事を書いてくださいよろしくお願いいたします。(龍ってなんですか?)
文量が多いからといって熱量があるとは限りませんが、熱量があると文量は多くなるものです。本来的に短くする必要なんてないですしね。これだけの文章をスマホで書けるものなのか…(と感じるのは私が歳をとったからでしょうか)
朗読劇や舞台というのは基本的に関東(というか東京)で実施されているイメージで、正直なところ個人的には縁遠いものです。往々にしてTLでそれらの評判を見聞きするに留まるのですが、やはり往々にして悪い話を聞かないので、気軽に行けるなら行ってみたいものですとは常々思っているところ。
青葉の軌跡以降初手SSPだった身としては、演劇というものについて、オリジナル作品より古典のほうが入りやすかったのかなという気はしています(SSPが面白くなかったという話ではない)。
朗読劇とは言っても衣装があったり、多少は動きがあったりなかったりするそうですから、演劇との境界線が融和する傾向にあるのでしょうか。朗読ではなく朗読"劇"ですものね。(あえてそこを峻別する意味もないのかもしれない)
観察眼の賜物だと思いました。7色のものが目に入るとふと思い起こしてしまうのは世の常ですが、それらを実際に7人に置き換えて考えてみるまで頭を働かせてみるかどうかには一つ壁があるように思います。そんな壁を軽々と飛び越えていく姿に賞賛の嵐。多分みんなオタ4がすき。
熱いPolaris論。彼女たちはこの歌で何を伝えようとしたのか。どのような想いを載せようとしたのか。東北を歌うと同時に、自分たちのことも……という解釈は純粋にいいなと思いました。(泣ける)
Polarisって本人たち・作中・ライブMC等々、比較的多くの場で語られているように思うのですが、俯瞰的に見たときの立ち位置はどうであるのか悩むときがあります。具体的に言うと、Polarisで一度WUGの物語は完結を見たのか、という視点です。もっと言うと、WUG組曲がエクストラな存在だったのかどうかみたいな話なのですが、どこかで言及されていたかしら。
3月8日は平日だったんですよね。あまりに人が多かったので個人的には忘れがちになりますけれども。もちろん、平日休みの方もおられるでしょうが、とはいえ一般的には参加しにくい日程だったでしょう。
思い返すと、私も学生の身分であることを理由に、行ってみたかったイベントを見送ったことがあります。ひだまつりって言うんですけどね……。さておき、自分の生活を差し置いてまでライブに参加すべきかどうかを考えると、とてもじゃないですが「ライブを優先すべき」とは言えないと思います…との前提の上で、それはそれとしてよくぞあの日に足を運んでくださった、と感謝を述べたくなる次第。(やはり何目線なのか)
何でもそうではありますが、「ライブに行ってみよう」っていう気持ちを持つのって、きっかけがないと難しいと思うんですよね。というのは、私がそうだったからなのですが、なかなかふらっと行けるものでもない。興味を持っても、まずチケットを買う壁があって、さらには遠方だと旅程を考える必要があって、加えて作品の予習もしとかなきゃみたいな気持ちになって。特に「解散ライブ」となれば、どうしても「ちゃんと準備しないと」と思ってしまうのではないかと。でもきっと、そういう方々が、各々の壁を乗り越えてたくさん集まってくれたから、あの日の光景があったのではないかと思うんですよね。
おつかれさまでした。これは私信の中でも完全に私信なのですが、私はWUGを追いかけ始めた当時、ざらっと思うままにライブ感想記事を書いたわけですが、それを拾ってもらったことが私にとっては「感情を書き残していこう」と思う非常に大きなきっかけの一つでした。加えて、他のワグナー諸氏が書き残した想いに触れることができたのも、そのお力があってこそでした。あらためてありがとうございました。
結局のところ、私たちは「上手に忘れる」を突き詰めていくことになるのかもしれません。記憶自体は否応なく薄れていくわけですが、思い出は残る。と、これは言葉遊びでしかありませんが、ともあれ元気に生霊として生きていくのも一つなのではないか、と最近は思う次第です。
自分の人生のターニングポイントと重なったコンテンツは、ともするとその事実だけで重く感じられるものかもしれません。それがWUGである必然はあったのかなかったのか。別に他のコンテンツでもよかったのではないか。そんなことを考えるわけですが、一つ言えるのは、「WUGでよかった」ということではないのかと思うわけです。
私もちょうど職場環境が変わり、想定していなかった職務に就いたことによる、あらゆる不安とイライラに目まぐるしく襲われていた時分にWUGと出会いました。置かれた環境は7人と全く異なるのですが、解散に向けて走る姿を、抽象的な「苦難」に身を置いていると捉え、当時の自分の身と照らし合わせることで、一緒に人生を走ることができたのではないかと感じています。
コンテンツは人と歩みをともにするものであると、そう実感したのはWUGが初めてだったかもしれません。本記事のように、誰かの一歩を踏み出させているのを見ると、より一層その力を感じるところ。もちろん、小さかろうが大きかろうが、一歩を実際に踏み出そうと思い、そして踏み出すのは常に自分自身なわけですから、全てを「〇〇のおかげ」と言うのもまた違うわけですが、コンテンツとは常に誰かに寄り添うものであるみたいな、そんなことを思いました。
青山さんが体調を崩されたのも2020年だったのか、などと言うと担当の皆さんから怒られてしまいそうですが、近時で見る青山さんの姿が、傍目にはこれまでと同様の元気百倍マンなので、遠い昔のように思えてしまいます。
ユニットを解散しても、7人は同じ事務所に所属していて、そもそも7人は7人のままなんですよね。何といいますか、解散から日が経つにつれて、より一層にそう感じるようになった部分があるかもしれません。ある種、ちゃんとした「ビジネスパートナー」になっていってるみたいな。
私はリアルタイムではなく、後に配信で新章を見たのですが、その際の感想としては「知らん間に終わってた」というものでした。決して面白くないわけではなかったのですが、アイドルものと言うかは、日常系に近かった印象を持ったものです。(とはいえ「アイドルアニメはかくあるべし」との思想があるわけでもないのでそこは適当ですが)
そもそもアイドルアニメ、あるいはアイドルの到達点とはどこにあるのでしょうか。大きな箱を埋めるのがゴールなんでしょうか。ライブを成功させたらOKなんでしょうか。おそらく何回もアイドルの祭典をやるわけにもいかんのでしょうね。
ユニットとしての活動と個々人の目指す方向の相違(あるいは今後相違していくかもしれない可能性)みたいな観点はあったのかもしれないなと思うところです。というのは概ね『7 Senses』の影響ですが、すなわち「7人であること」を前提とするのかどうか、みたいな話です。
「個人で得られた経験をユニットに還元する」との言い方は自然なのですが、そもそもユニットありきで物事を考えるのも実際はどうなのか。そうすると、そもそもアイドルユニットというのはどのように歳をとっていくべきなんだろうと。いや、ちょっと先日に嵐の解散ライブを見て色々思いまして……。
koroofassistant.hatenablog.com
Wake Up, May'n!論。何でもかんでも「論」を付ければいいというものでもありませんが、感情の乗った文章を見るとついつい付けたくなってしまうのも人の性。I-1Clubは解散していない定期と同様に、WUMは解散していない定期も存在します。
WUMの楽曲群はWUG全体の中でどのような位置づけになるのか。純粋なタイアップ曲とはまた違うんですよね。僕フロや暴君とは役割が(おそらく)違う。
個人的な話ですが、実はわたくし、WUM含むタイアップ曲を作中の7人が歌っている姿をなかなか想像できません。大きな理由はおそらく、キャラ声で歌われたことがないからだと思うのですが、みんなどう歌うんだろう。どんな場面かも含めて。
カレンダー企画ありがとうございました!
とても純粋に、技術のわかる方は色々できてすごいなあと素人丸出しの感想を抱くわけです。「道具をどう使うか」みたいな論もありますが、まずは使い方を理解しないとねという気持ち。
仰っている通り、髪色の幅は演じたキャラクタの多さに比例するのでしょう。ただ、髪色がある程度キャラクタの性格付けに寄与する前提を考えると、単に演じたキャラ数の多寡ではなくて、演じられるキャラクタの幅に比例すると言えるでしょうか。そこをあわせて考えると、田中・山下コンビが散らばっているのは納得です(ある種声優に係る仕事量の多さとニアリーになりそうなので、これはこれでアレかもしれませんが)。
声質と髪色は相関するのかはちょっと気になりました。いや、よくメインヒロイン声とか言うじゃないですか。とすると、メインヒロイン声の人の演じたキャラクタの髪色は類似しているんだろうかと。この場合、そもそもメインヒロインの髪は何色傾向なのかから話を始める必要がありそうですが……。
shion-up-eternal-wugner.hatenablog.jp
一応阪神淡路大震災を経験した身なのですが、当時はまだまだ幼かったこともあり、あまりはっきりとは記憶に残っていません。揺れたあとのことは覚えているのですが、揺れたときのことはおぼろげ。家具が倒れていたので、ともかく事の重大さだけは子どもながらに認識していたように思います。
一方で、東日本大震災のときには学生とはいえもうほどほどに大人でしたから、よく覚えている……と言いたいところですが、徐々に不明瞭になっています。ただそれでも克明に覚えているのは、「これは本当に現実で起きていることなのか」との感覚です。頭が理解を拒否していたのか、それとも単に追いついていなかったのか。当時関西では概ね震度2~3に収まっており、とはいえ結構揺れたなと思ってテレビを点けたら、どうも大変なことが起こっているらしいと。中継映像には、津波が押し寄せる中で微動だにしない車が映っており、はたして大丈夫なのかと。というか、何だこれはと。もうよく分からない。
当時はTwitterもやっていませんでしたから、テレビ見つつ掲示板見つつで報道を確かめながら、しかし日常は続いていく感覚に気持ち悪さを覚えていました。
毎年の黙祷の折、そうやって10年前を思い出すのですが、そうかもう10年ですか。
merryx2fantasia.hatenablog.com
3月8日からワグナーになった、あの日が最初で最後のWUGのライブだったと仰る方は実は結構多いように感じていまして、なんだかとても嬉しい話だなと思うわけです。そしてヒガプリやワグナイターが果たした役割が決して小さくなかったということも。
WUGがどれぐらい地域に根ざしていたのかは、外の人間からはなかなか見えない部分も多いのですが、こうした自然な感想を拝見すると、彼女たちはちゃんと東北に居たんだと感じます。
解散して残念なことがあるとすれば、そのような連続的な繋がりの一つ一つが絶たれてしまった(ように見える)こと。ここは「二次元のWUGちゃんは解散していない定期」を持ち出して、また何かしら催してくれないかなあと思いつつ、現実的にはどうでしょうね……。
記録に残すことの大切さですよね、と知ったような口を聞いて恐縮ですが、「振り返れる」ってやっぱりすごく重要で、「何をどう考えていたのか、何を感じたのか」って移りゆく時間の中で決して同じではなく、だからこそ見返せる状態を維持しておくことが大事なんじゃないかと思うわけです。
正直に言って私に「一から読み直そう」という勇気はありませんが、HOMEツアーの期間における記事をふとした時に読んだりすると、ああそうだったなと。か細い記憶がグワッと思い起こされたりします。その時に、残しておいてくれてありがとうと、そんなことを思います。
よくよく考えると、もちろんユニットのPRを兼ねているわけですから紛うことなくお仕事の一環ではあるものの、週に一回一記事を積み重ねてきたというのは、よくそれだけ労力をかけてやったものだなあと思います。7人も自分の書いた記事を見返したりしているのでしょうかね。
毎度ながらよくぞここまで追いかけておられるものだと嘆息ですが、7人が歩みを止めていないことの証左でもあります。「私たちはこれぐらい前に進んだけどお前は?」と問われている気がしたので、2021年も頑張っていきましょうと思った次第です。
声優というのは出演作が実績としてそのまま残っていくなんだなと。いや、これは当たり前なのですが、私が不出来なサラリーマンであるがゆえに、それってすごいことだなと思ってしまうのですね。出演作が一つ増えると、職務経歴書への記載も一行増えるみたいなイメージ(そんな職務経歴書はあるのか)。
裏返すと、漫然と過ごすだけでは行が増えなくてあかんということですが、そこは一般男性でも同じだと思うので、「他人に説明できる実績を積んでいこう」という高めの意識のもとでやっていきたいなと思いました。今年も気持ちの上ではWUGちゃんに追いつけ追い越せ精神です。
ゆるい連帯感と言えばいいのでしょうか、他コンテンツを知らないのでこれは勝手な憶測なのですが、ワグナーって近すぎず遠すぎず、みたいな距離感の方が多いような気がします。いやこれはオタクがそうなのかもしれませんが。ともあれ、そのほうがもろもろの関係性も長く続いていくように思います。
これを書いているときはすでに年が明けているのですが、はたして2021年はどんな一年になるのでしょうか。また明るさに満ちた人のつながりを見られればと願ってやみません。
以上、おつかれさまでした。皆さまにとって2021年がいい年でありますよう。