何か楽しみにしている予定があると、それだけで一日のスピードは早くなる。その予定は何だってよい。自分の好きな物事であれば問題ない。誰かの誕生日かもしれないし、映画の公開日かもしれないし、新刊の発売日かもしれない。世の中はそういう物で溢れている。毎日が誰かの記念日であり、何かのリリース日である。
そう考えると、世の中を生きていくのはそう辛いことではない。一つ終わっても次がある。それが終わってもまた次へ。自分の趣向を向ける先がこの世に存在する限りは、それを頼りに日々を過ごすことができる。
実際のところ、世の多くの人々はそうやって生きている(のだと思う)。決して楽しいばかりではなく、何だったらしんどいことの方が多い毎日ではあるが、少し先にある希望を求めて、今日も明日も一歩を踏みしめるのである。
他聞にもれず、私もそうやって毎日を生きている。ただ特定の何かのファンというわけではない。恒常的に楽しみにしていることと言えば、年末にフェスティバルホールで行われる立川談春の独演会*1と「なく頃に」シリーズの新作を楽しみにしているぐらいである。ゲームが好きだが、往々にして有名なIPはメディアに取り上げられるから、それを経由して発売日を知って購入するという流れであり、何ヶ月も前から発売を楽しみにするなんてことはない。しかし、それでも定期的に何らかの楽しみは訪れるのであり、だから私は毎日を生きている。
生きるとか死ぬとか言うとひたすらに大げさに聞こえるし、実際私はそれらがなくても死なない*2ので、実際のところは「生活の糧になる」ものと言える。そしてこの3ヶ月間、私にとっての最も大きな糧は、間違いなくWake Up,Girls!だった。厳密に言えば、声優ユニットとしてのWUGである。
結局声優ユニットとは何なのかはよく分かっていない。アイドルとは違うらしい(と私は思っている)。彼女たちはあくまでも声優である。声優がアイドル化して久しいとは言われるが、声優はアイドルではない。などと言い出すと、アイドルの定義を先にしなければならなくなり、私はこんなことを言いながらその方面には詳しくないので言及しない(できない)。
なぜこのようなよくわからないことを言っているかというと、大宮公演後に帰宅して見た『わぐばん!Blu-ray』が発端である。OPで「声優ガールズユニット」という紹介がされていて、「あ、枠組的にはアイドルユニットじゃないんだ」と思った。WUGちゃんたちの本分はあくまでも役者であってアイドルじゃないんだ。そりゃそうか。みたいなことを考えながら市原・座間・大宮の公演を思い返してみる。WUGちゃんたちはあくまでも役者であると考えると、私が公演を見る中で感じた楽しさと寂しさに説明をつけられる気がした。また、役者としての要素が随所にあらわれていたように思えてくる。きっと私の気のせいではあるが、コンテンツの過去の経緯を知らない身として、折角なので特に詳細を調べることもせず思うままに書き綴ってみよう。例によってきっと皆さんが通った道なんだろうとも思いつつ。
そもそもWUGはアニメと現実の「ハイパーリンク」という要素を根っこに据えたコンテンツである(らしい)。よくよく考えれば、WUGちゃんたちは自己紹介の時必ず自身の役名を言う。実のところ、私はこれを聴く度に違和感がある。WUGちゃんねるのような、およそアニメのWUGとは離れているであろう場所においてもそのように言うからである*3。ライブならまだしもとは思うが、WUGのライブに2.5次元成分を求めて来ている人はそんなに多くないように思っている。これはもちろん私が思っているだけで、実際にはそのようなニーズもあるのかもしれない。しかし、例えばライブにおける吉岡さんに、(表層的な)島田真夢らしさを求めているような感じは、客席を見る限りではないように思う。だから私は別にライブのときぐらい「島田真夢役の吉岡茉祐です」と言わなくてもいいのではないか、と思うわけである。
これは単に昔の名残かもしれない。つまり、そもそもはアニメが主のプロジェクトなのであって、あくまでも彼女たちはキャラクタを演じる声優なのであるから、自身の役名を言うのはむしろ当然であり、どちらかといえばユニットの展開が主となってきていた現在においても、これまでと同様に一つの慣例として続いているのでは、という考え方である。
しかし、何となくだが、そういう「流れで」みたいなことはしないような気がするので、もっとシンプルに考えてみると、これは「自分たちは別にアイドルではないよ」ということの宣言なのではないか。人間宣言ならぬ声優宣言なのではないか。つまり、「自分たちはあくまでも役者である」ということを自己紹介で明確にしているわけだ。今ステージ上に立っている7人は、役者としてアニメWUGの7人をモチーフにしたアイドル像をそれぞれに演じているということをあえて示しているのである。知らんけど。
もとよりアイドルというものは演技の産物と言えるか。とはいえ別にアイドルに限った話ではなく、芸能の世界に生きている人の内、観客(のみならず仕事上関わりを持つ相手)に対して本当の素を見せている人など存在しないだろう。素っぽさがあってもそれは素っぽいだけで素ではなく、演技上の素である*4。だからステージ上でWUGちゃんたちが見せるパフォーマンスは、磨き上げられた演技力の産物であると言える。
そう考えると、私が公演の鑑賞回数を重ねるにつれて、段々と疎外感のようなものを感じ始めだした理由も説明できる気がしてくる。すなわち、エンターテインメントとしての完成度が高いがゆえに、そのステージが彼女たちの「弛まぬ努力が積み上げられた成果」であり、精巧に作り上げられた空想の舞台であることがまざまざと感じられ、結果としてステージと客席との遠さもまたひしひしと感じられるということである。
ここまでのものを作り上げるのに、彼女たち*5はどれほどの時間と労力を費やしてきたのだろうか。想像しようにもできない*6。そこに感覚の齟齬が生まれる。すなわち、座間のときに述べたように、私はWUGちゃんに対し「同じ文脈の文化に囲まれて育ってきた同世代の人間」としての親近感を覚えている一方、根本的に自分と異なる精神を持った存在であると認識している。そこの距離感がそのまま一種の寂しさを生み出しているのだろう。
そういった寂しさを感じられる回数がだんだんと減っていくというのもさらに寂しいものだ。ユニットの追っかけをするのも人生最後*7であろう。自分にとっても最初で最後の経験であるからこそ、一回一回をしっかりと目に焼き付けていきたい。さあ、明日は八王子ですね。
〔余談〕
・大宮公演を経て、今回がホールツアーでよかったと思った。オルスタだったら地獄を見ていた気がする。(そもそも行ってないか)
・可能であれば上階の最前列で座って黙って見るのがやっぱり最大の贅沢なんじゃないだろうか。