死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

宮森でも落合でも矢野さんでもなく興津さんの立場に近づいていく

 何回も書いているのにもはや最近は忘れつつあるが、最初にSHIROBAKOを見たのはもう働き始めていたはずである。当時の年次的に、感情移入したのは宮森の立場であった。最若手の立場ながら業務を回す宮森。疲労困憊の宮森。絶望する宮森。でも周りからの信頼はあって、押さえるところは押さえて、なくてはならない存在の宮森。そして何よりも、自分のいる業界や会社に希望を持っている宮森。どう考えてもブラックな環境において、心折れずに物事をやり遂げようとするその姿は、非常に魅力的に映ったものである。

 その他の同級生メンバーも同様である。若者というのはよく悩むものだ。絵麻は自分の能力に、しずかと美沙は自分のキャリアに、みどりは自分の進路に悩む。宮森も含めて、五人は自分の将来に悩んだ。歳のとり方、あるいは時間の使い方と言ってもいいのかもしれない。このままでいいのか、との命題に向き合い、選び、前に進もうとした。多かれ少なかれ、そしてその性質はどうであれ、何やら停滞感を覚えている人間には、その姿がやはり眩しく映った。そして誰しも同じようなことで悩むんだなと、創作上のキャラクターたちにシンパシーを覚えたのだった。

 劇場版では、中堅世代へと進む彼女たちの姿を見られた。それを見ている私も同様に歳を取っている。後輩ができ、徐々に管理する側の立場に近づいていく。落合どころか、矢野さんどころか、興津さんの立ち位置のほうが、今となっては近しいのである。

 宮森たちを目の前にして、先輩(あるいは上司)たちは何を思っていたか。落合も矢野さんも多分に「大人」だった。なんとかしなければと動き回る宮森をサポートしつつ、自分ができることはきっちりと済ませていく。本田も万策尽きたと嘆きながらも、どうにかして道筋をつけようとする。

 なんとかしなければならないという責任感と、なんとかなるだろうという楽観的な感情が良いバランスで織り合わさっていたのだと思う。特定の1人に備わっている、というかは組織全体でカバーされていた。そもそも丸川社長がドンと構えているおかげかもしれない。もとい、丸川社長はもろもろの修羅場が、何だかんだで乗り越えていけるものであることをよく知っているのだろう(修羅場が何回も訪れる事自体はよくないようにも思うが)。とはいえ、そんな丸川社長も、劇場版では契約という基本的な要素でつまずくのだから、気は抜けない。

 歳を取ると立場が変わり、立場が変わると視点が変わる。そして、視点が変わると、行動の順序が変わる。やらなければならないことが変わる。できることの種類が変わる。そういう変化の中で、抵抗することなく流れていけるとよいのだが、そうやって漂うのが楽かというと意外とそうでもなく、結局のところどうしようが、それなりにエネルギーは使わざるをえないのであって、配られたカードで勝負するしかないとのセリフを否が応でも実感するわけである。

 

イヤイヤゼミの夏

 夏の風物詩であるセミだが、近年は種別ごとの生息数に格段の差が見られるようになり、聞こえてくる鳴き声と言えばクマゼミのものが多い。夕方になればヒグラシの声も遠くから聞こえるが、かぼそく今にも消えてしまいそうである。それでも、アブラゼミニイニイゼミのように、本格的に姿を見なくなった個体と比べれば、まだその存在を身近に感じられる。しかし、ヒグラシもいずれはどこかへと行ってしまうのだろう。

 8月に入り、まだまだ暑さは続いているものの、涼しい風の吹く時間が増えた。地球はまだ、一応、暦のめぐりを覚えているようである。そんな中、巷でまことしやかに論じられるようなのだが、どうも聞き慣れないセミの声がするという。その声がするのは決まって朝の時間帯であり、しかも平日だけで、週末にはぱったりと聞こえなくなるという。

 どのような鳴き声かといえば、これもまたなんとも言い難いようなのだが、多くの人が表現するところでは、どうやら「イヤイヤ」と聞こえるらしい。大抵の場合「イ‐ヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤーイ」と、最初は強く、終わりは弱く、フェードアウトしていく。少し休んだあと、また「イ‐ヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ」と鳴き始める。お昼に近づくにつれて、声の数は段々と減っていき、夕方までには聞こえなくなるようである。

 あんな鳴き声のセミは聞いたことがない、と誰もが口を揃えて言う。早くも誰かがSNSに鳴き声をアップしたところ、付いた名称は「イヤイヤゼミ」。それ以外には無いかのようなネーミングである。

 近年のどうしようもない暑さのせいで、セミ取りをする子どもの姿は全く見なくなったが、イヤイヤゼミが現れたとなれば話は別なようだ。アミとカゴを手にして公園を駆け回る様子は、10年以上前の夏の風景を思い出させる。一つ問題だったのは、どれだけ子どもたちが探し回っても、イヤイヤゼミの姿をついに見つけられなかったことであった。

 そもそも、イヤイヤゼミは公園のような空間にはいないようであった。鳴き声が聞こえてくるのは、決まって住宅街であったり、駅やバス停の周辺である。木々の存在は関係なく、どこか特定の空間に足を踏み入れると聞こえてくるようであった。そうすると、イヤイヤゼミは生物ではなく、現象ではないかと論じる向きもあった。つまり、イヤイヤゼミと呼べる生物がいるのではなく、近隣の構造物や環境によって、「イヤイヤ」というように聞こえているだけではないのか。

 しかしそのような言説も、数ある話題の一つとして面白半分に消化されたのち、夏の終わりとともに散っていった。時を同じくして、いつの間にかイヤイヤゼミの鳴き声も聞かれなくなっていた。