死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

3月に読んだ本など

 

 去っていったよ、3月の野郎はさ。

 

 

【3月に読んだ本】

「静かな人」の戦略書

 自らを内向的な人間と語る人はそれなり多いというか、逆に外向的だと自称する人に出会ったことがない。そもそもそんな話をする機会がないだけかもしれないが、おおむね「人見知りだからさあ」と喋り、いやいやそんなことないでしょ~と返すのが基本的なパターンである。

 そんなことないでしょと言ってしまうのは、人見知りを自称するのが、これまた概ね傍から見ると外向的に見える人だからなのだが、それはそれで本当なのかもしれない。逆に言うと、真に外向的な人間がどれぐらいるのか。集団の飲み会で騒がしく喋っている兄ちゃんも、一対一で飲むと静かだったりする。それでいて、「騒がしいところはあんまり好きやないんよな」と言ったりする。そしてそれを聞いて分からんもんだなと思うわけだ。ともすればそれもコミュニケーションの技なのかもしれないが。

 陽キャ/陰キャと外向/内向はおそらく対応する概念ではない。陽キャで内向的な人もいる。その逆もしかりであり、そもそも陰陽ってなんだよと雑なことを思う。いや、陰陽ということは、一方がいなければ互いに存在できないということで、真理をついているのか。

 私も内向的な人間を自認する一方で、人と話す機会は楽しく思うし、それでエネルギーを貰える部分もある(これは外向的な要素らしいが)。そもそも多くの人はどちらの要素も持ち合わせている気もするし、本書にもそのようにかかれている(はず)。思考が固定化されそうな気がするから、あまり外向的だ/内向的だと思って自分を表現するのがよいことなのか、少し疑問を持っているが、「内向的」の特徴にスポットライトが当てられたことに意味があるのだろう。

 

 

近畿地方のある場所について

kakuyomu.jp

 

 こうやってリンクを貼ることによって呪いに加担しているのではないかと思わせている時点で良い作品なのだろう。ライブを楽しんだ翌日、爽やかな日曜日の午前中に読み始めて一気に現行最新話まで読んだ。

 洒落怖系、で意味が通じる世の中もすごいと思うのだが、モキュメンタリーホラーは定期的に読みたくなる。夏が近づいてきたら久しぶりに残穢を読み直そうかと思った(読み直す類の作品でもないが)

 SNS上で広がって……の流れだけを見るならば、近似では『忌録』を思い起こす。この点、忌録の中で行方不明になっていた子どもの顔写真が、本作で登場する(もとい作者のツイッター上であっぷされている)子どもの写真と同じものであるように思うのだが、そもそもどっから持ってきた写真なんだよこれはと思いつつ、忌録を読み直すのも怖いので、本当に同じものかの確認ができていない。この先もできない。

 noteで考察をされている方がいたが、そういった記事を読むと物語っぽさが感じられて怖さが和らぐ。しかし、それすらも呪いの一部なのかもしれない。読み終えた後、数日間会社からの帰り道が怖くなった程度には影響を受けた。かきもありますよ。

 

 

【3月にプレイしたゲーム】

Cyberpunk 2077

 メインストーリーをクリアした。サブクエストを消化したいと思うゲームは久しぶりだった。言い換えると、メインストーリーをクリアしたくない感覚である。

 私の場合、サブクエをやっていると終わりが見えてこずだんだんと疲れてきてしまい、どこかのタイミングでメインストーリーを進める決心をし、なんやかんやでメインを終わらせてしまって、そしてその流れでゲームをアンインストールすることが多い。しかし、本作はなかなかメインを進める気にならなかった。延々犯罪者たちの神経回路をショートさせていた。これが楽しくて仕方がない。

 とはいえ、我ながら元来のゲームの楽しみ方を根源から変えることはできず、約50時間でクリアとなった。オープンワールドの面白さを思い出させてくれた作品。でもやっぱりもう少し挙動は安定してほしい。

 

パラノマサイト FILE23 本所七不思議

 面白かった。上記の近畿地方の~を読み終えた同日の夕方から始めた。ホラー三昧だが、その結果として、クリアするのが大体深夜2時頃になり怖かったので、賢明な人は午前中からプレイするべきである(一日でクリアする前提)。

 グラフィック的に怖いのは、主人公格でもろもろに映っている、置いてけ堀の少女の顔ぐらいなのだが、のっけからジャンプスケア(正確には、絶対これ驚かしに来るやろと思わずにはいられない構造も含め)にビビらされる。しかし、そこらを抜ければ理不尽な驚かしはほぼなくなり、ストーリーに集中できるようになる。逆に言えば、最初の数十分で脱落する人がいたとしても不思議ではない(本当にホラーが苦手な人など(でも本当に苦手な人は端からこの作品をプレイしようとはしないかもしれない))。

 途中から、ホラーよりも舞台の謎解きが物語のメインになってきて、ついつい読み進めてしまう。その結果の深夜2時である。ギミック的に開始数分で心というか心臓を掴まれて、離されないままに10時間ぐらい経っていた。人によってはEver17(伏せ字)を思い出すだろうか。

 

【その他】

TOEIC

 昨月に引き続き受験。短いスパンで受けたことに(体力的な意味で)後悔しつつ、前回からほとんど準備が進められていなかったので、もう受けなくていいやろと思ったものの、金がもったいない精神で会場に向かった。えらい。

 結果として、910点を獲得した。目標にしていた860点を超えられたので満足。図らずも900点を超えられたので大満足である。宝くじは買ったとしても当たるかわからないが、試験は受ければいい結果を得られることがある。

 TOEICは満点を取ってからがスタート、などという言説も目にするが、そこまで高みを目指す気力も目的意識も理由もないので、受験はこれで一旦終了となる。900あれば、少なくともスコア的な観点で困ることはないだろう。

 ChatGPT全盛の中でこれ以上英語学習をする意味があるのかもよくわからないが、そうはいっても世の中そんなにすぐには変わらんやろとのヘラヘラ顔をしながら、スピーキングとライティングの練習をしていこうかの気持ちである。ただ、どれだけ学習をしようが、日常で使う機会はなく、根本的な問題は残る。

 

知的財産管理技能検定

 2級を受験した。3級を取得したのがもう5年前ぐらいで、さっさと2級を取ろうと言いながらコロナやモチベやらの影響で横に置いていた。精神的な宿題と化しており、そろそろ終わらせたい気持ちがあったため、勉強の練習も兼ねて受験した。それにしても「テレワーク時代だからこそ欲しい国家資格!」ってどういうキャッチフレーズですか。

 自己採点的には合格してそうだが、ともあれさっさと発表日を迎えたいところである。しかし、迎えるともう4月も終わりが見えてくるのでつらい。時が経つのが辛いのか、ただ時が経つのが辛いのか。

 順調に2級コレクターの道を歩んでおり、あとは簿記を取れば事務系一般会社員的には十分なのではと思い始めている。資格勉強は、時間の使い方としてはあまり罪悪感なく、その意味で健康的だとは思うが、根本的な問題として、あまり面白くないのが瑕である。

 

 

 それでは今年度もやっていきましょう。

 

 

新たな一歩を踏み出す先は(あるいは、『Run Girls, Run!FINAL LIVE ~新しい道の先へ~』に行ってきました感想)

 

 迷っていた、というのが正直なところだった。前日の朝になってもなお決めきれない。単純に疲れていた。土曜日に遠出をするのが億劫だったのだ。しかし、それは理由付けの一つにすぎない。何よりも、自分などが行ってもよいのだろうかとの気持ちが、日が近づくにれて大きくなっていたのだった。

 2022年7月、女性声優ユニットであるRun Girls, Run!の解散が発表された。5thライブツアーが始まろうとするタイミング。公演がそのまま解散への花道になっていく状況。遠くから彼女たちの活動を見ていた私にとって、それは青天の霹靂ではなかったにしても、どこか見覚えのある光景で、また何かが一区切りするような、してしまうような感覚だった。とはいえ、私はツアーに参加しなかった。その流れに加わるほど、彼女たちに気持ちを向けられてはいなかったからである。

 だから、FINAL LIVEが発表され、その会場の選定に関する論評が舞い踊った際も、他人事として捉えていた。少なくとも、私がこのライブに行くことはないだろう。解散を心から惜しむ方々が、彼女たちの門出に花を添えた方がよい。その機会を邪魔するのはよろしくないだろう。そう思っていた。

 しかし、その後に私が聞いたのは、顔も知らぬファンたちから発せられた「来てくれ」の言葉だった。私はこの光景を別のユニットにおいて一度見たことがある。そしてその時は、一応当事者側にいた。そこから数年が経った今、立場を変えて同じような状況にある。なればとりあえず応募だけでもしてみるかと、イープラスに馳せ参じたのだった。

 チケットがご用意されるとは思っていなかった。だってそういうものだろう。程度はどうあれ、この世はご縁でできている。これまでまともに追いかけていなかったユニットの、しかも最後のライブに、門外漢が赴く機会を得られるものだろうか。しかし、蓋を開けてみれば取るに足らぬ心配であり、機械的な抽選によって、私は滞りなく当日の夜公演、すなわち彼女たちの最後となるライブのチケットを得たのだった。

 そういうわけだから、最後まで迷っていた。私よりも、強くこの機会を欲している人がいるだろう。彼ら彼女らを差し置いて、その1席を私が埋めてよいものだろうか。せめてもの、昼公演にしておくべきではなかったか。Twitter上でチケットを探すアカウントを見るたびに、私は自問自答することとなった。しかし、簡単に席を譲ろうという気にもならなかった。

 そうして迎えたライブ前日の23時。仕事から帰宅した私は、新幹線を予約していた。ついでにホテルも探していた。考えてみれば、悩む必要などないのだった。

 

 

 いつ乗っても変わらない山手線の混み具合に悪態をつきながら、到着した土曜夕方の代々木はイメージ上の東京らしからぬ雰囲気で、どこかなつかしい雰囲気を漂わせていた。悪天のせいか人もまばらな改札口を抜け、早々に顔を出す飲食店街に足を向けると、見覚えのあるタオルやパーカに身を包んだ人たちの姿が見える。スマホを片手に道を進み、ぬっと現れたM.YAMANO TOWERを見上げながら、「山野ホール」と書かれた看板に導かれ、あっさりと会場に到着したのだった。非常に立地が良い。

 出入り口に飾られていた諸先輩からのお花の撮影もそこそこに、会場内に入って座席に腰を下ろす。目をつぶって耳にするざわめきは心地よく、ライブ直前特有の緊張感を思い出していた。どうして見る側も緊張してしまうのだろうか。高揚感が見せる錯覚だろうか。未だに答えは得られていない。

 オーバーフローしたトイレの待ち行列から帰ってくると、会場の熱気は最初よりも高まっていた。再び自席に向かい、じっと始まりを待つ。定刻を少し過ぎた頃合いで、いよいよライブの幕が上がる。きっといい時間になるだろう。根拠はなかったが、そう思わせる空間があった。

 

 

 彼女たちのパフォーマンスを最後に見たのは、およそ5年も前のことである。姉妹ユニットであるWake Up, Girls!のライブ。私が初めて生の7人を見たGreen Leaves Fesに、3人もいた。思えば、両ユニットともに、最初の出会いは同じタイミングだったということだ。

 5年ぶりに見た彼女たちの姿から感じられたのは「余裕」だった。視線を動かさずに次々とフォーメーションを変え、激しい動きをいとも容易く繰り広げていく。それも、笑顔を絶やさずにである。そして時にはアンニュイな表情を浮かばせる。3人の器用さと底の深さに驚かせられた。

 

 森嶋優花さんは大きい。これは論理矛盾だ。彼女の身長は公称147cmであり、一般的に見ても小柄である。しかしながら、ステージ上の彼女は大きい。それは彼女の動きがそう見せているということだろう。そしてそのようなパフォーマンスは、往々にして観客からは魅力的に映るものだ。何よりも、「簡単そうにやっている」ように見せるのがとても上手いと思う。難しい動きの、その難しさを感じさせない。つまるところ、実力に裏打ちされたもの、ということだろう。

 厚木那奈美さんはしなやかだ。長い手足がやわらかく伸びている。ムチのように、と称するのが褒め言葉になるのかはわからないが、きれいに緩急がつけられた動きは、緊張と緩和を体現しているようで、ついつい目で追ってしまう。それは一種の期待だ。次に彼女はどのような動きをするのだろうかと、楽しみになってしまうのである。

 林鼓子さんは何かを纏っている。それは自信という名のオーラだ。実際のところは知らない。しかし、観客席から見る彼女は、常に才気煥発の極みである。テニプリか? そのような姿を見て人はどう思うか。安心するのである。不思議なもので、仕上がっている存在と出会ったとき、人は安心するのである。そういった存在が存在することを心強く思うのである。

 時が経てば人は変わるが、必ずしも成長を伴うわけではない。しかし、5年ぶりにみた彼女たちの姿は、5年前と明確に変わっていた。今や妹分でもなんでもない。彼女たちはユニットとして、Run Girls, Run!として独り立ちしていたのだ。ともすれば、もうずっと前からそうだったのだろう。

 

 3人の最後の姿を目に焼き付ける以外にも、このライブに来た目的があった。『キラリスト・ジュエリスト』の例の動きを見ること、そして四季曲と呼ばれている4つの楽曲を聴くことであった。そしてこれらは無事に達成されることとなる。

 始まった瞬間、会場のボルテージが一段階高まったようだった。その場に居る全員がこの曲を愛していると言わんばかりである。キラリスト・ジュエリストは魔法のような一曲だ。何も分からなくても自然と体が動いてしまう。そしてあのダンスである。どうしてこのダンスはかように人を惹きつけるのか。楽しんでいる人を見て楽しくなる。多幸感の極地であるかのごとく時間に、これだけでもって、来てよかったなと感じたのだった。

 そしてその興奮が収まることなく、続き始まった四季曲に感情を持っていかれることとなった。これらの曲を会場で、大きな音で聴いてみたかったのである。環境が変わると曲の印象も変わることがある。四季曲は切なさがパッケージングされた楽曲群だが、『サクラジェラート』はどこか機械的に聞こえ、『水着とスイカ』からはじめじめした夏の蒸し暑さが漂ってくる。『秋いろツイード』のやるせなさには胸を痛くしてしまった。そして何よりもこの日、四季の最後を彩る『スノウ・グライダー』を聴いた私は、そこに一抹の楽しげな雰囲気を感じ取ってしまったのだった。

 これはどういうことだろう。その日、スノウ・グライダーから感じられた、将来への希望のようなものは、一体何だったのだろうか。ただ単に、現実に置かれた3人の状況と重ね合わせてしまっただけなのかもしれない。四季の巡りに、始まりと終わりを当てはめるのは人間の勝手な振る舞いだ。しかし、私たちは春に始まりを、冬に終わりを見出す。冬を超えれば春が来ると知っている。そこでは常に始まりと終わりが連環している。

 彼女たち3人は、今日が一つのゴールであると言った。そして、ゴールはまた新たなスタートでもあるのだと。それを四季になぞらえたからこそ、スノウ・グライダーから希望を得たのではないか。もちろん、これははっきりしない。私にとって、3人から残された宿題となったのだった。

 

 

 セトリを終えた会場に、「Run Girls, Run!」のコールが響き渡っている。アンコールで3人を呼ぶためだ。脳裏に、懐かしくも楽しかったいつかの情景が蘇る。好きな人たちの名前を呼べるのは幸せなことだ。

 Wアンコールで再度歌われた『カケル×カケル』を聴きながら、ユニットの「解散」という到達点に思いを馳せる。3人のスタートラインで歌われたこの曲は、今となってはゴールラインから過去を振り返る曲であり、さらには新たなゴールに向けてのスタートを歌っている。何も知らない者の感想であるとしても、少なくともそこだけを取ってみるのであれば、何ともきれいな幕引きではないか、と思ってしまったのだった。

 

 祭の終わり、会場を出ると透き通った清々しさを感じた。寂しさに打ちのめされそうな人もいるだろう。しかし、楽しいライブだった。その事実も揺るぎないものである。終演後、旧知だったり初対面だったりした方々と、JR東海CMさながらの邂逅を果たしつつ、語らうことでその実感を強く持った。

 

 4月1日を迎え、声優ユニットとしてのRun Girls, Run!は名実ともに解散した。3人が新たな一歩を踏み出す先には、一体何が待っているだろうか。彼女たちの前には、どのような風景が広がっているのだろうか。同じことは観客側にも言える。もちろん私にも。一瞬でも、こうやって彼女たちと私たちの人生を重ねられたことは、間違いなく幸せだっただろう。そして、3人はもうそれぞれに動き出している。なればこそ、私たちもじっとしてはいられない。そう、止まってなんかいられない。