死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

祈りの先に何を見出すか(あるいは、hololive 4th fes. Our Bright Paradeの配信鑑賞感想等)

前段

 星街すいせいさんのライブ配信を見た。2023年1月28日に実施され、『Hoshimachi Suisei 2nd solo live "Shout in Crisis"』と題されたこのライブがどのように素晴らしい内容であったかは、公式のチラ見せ動画だったり、レポートだったりから知ることができるだろう。公演からもう2ヶ月も経とうとしている時分において、いまさら何かを語ろうとするのは遅きに失するが、その時に生じた疑問が自分の中に残っており、それがつい先日に氷解しかけたので、最初に導入的に書いておこう。

 

 そもそも、私がVのライブ配信*1を見た経験は、これまでに数えるほどしかない。2021年の『月ノ美兎は箱の中』、昨年の『hololive 3rd fes.』、そして今回の星街すいせいさん。したがって、何を基準に話せるわけでもないのだが、素人感覚として、配信を見るたびに感動する一方、技術的な難しさもまだまだあるのだろうと感じていた。その感覚は、初期の初音ミクのライブ映像を見た時から根本的に変わっていない。すなわち、スクリーン上に映る演者を、カメラを通して違和感なく視聴者に届けるには、さらなる技術的な進歩を要するのだろう、という感覚である。

 現代では、ARという選択肢が増え、それによって臨場感ある映像を作り出せるようになった。一方で、どのような会場、またどのような規模のライブでもその選択を採れるかは定かでない。予算も機材も、一定以上に必要となるだろうし、そのほかにも、様々な要素を総合考慮することが求められるように思われる。

 AR映像を使わないとの選択をした場合に、いかにしてステージ上にいる演者の(視覚的な)実在性*2を高めるかは、一つの課題であるように思われる。先程からメタな話で恐縮だが、演者は(現実的には)スクリーン上に映し出されているわけであるから、そこにカメラが単に寄っていくだけでは、かえってスクリーンの存在が明確になってしまう。カメラ越しに見るスクリーンは、平面さが強調され、また演者自体も若干不鮮明に映ることから、「そこにいない感」が強まるのである。

 

 今回のすいせいさんのライブでは、AR映像が用いられなかった。その代わりなのかは分からないが、①カメラワーク(厳密にはカメラの位置)と②バストショットを活用することにより、実在性を補おうとしていたように感じられた。いずれも、上記のチラ見せ動画を見れば、どういった部分を指しているのかはすぐに分かると思われるが、私の頭の整理も兼ねて以下で詳述する。

 

①カメラワーク

 本配信では、観客越しに(または観客とともに)星街すいせいさんが映る場面が多く見られた。定点のほか、クレーンやレールも用いて、観客の頭の間から見えるすいせんさんだったり、ペンライトの間から見えるすいせんさんであったりが映される、といった恰好である。現実に存在するもの、すなわち観客や物理的なステージを画面に加えることで、画面に映るその場所が現実に存在すると強調される。この時、必ずしもピントはすいせいさんに合わされていない。言い換えれば、その映像はすいせんさんではなく、すいせんさんと観客が共存するその場を映し出している。

 また、すいせいさんを単独で映すにしても、例えばステージ下から角度をつけるようにしている。推測だが、そうすることで立体感が生じるのに加え、すいせいさんの足がステージについているように見える。重力を感じるのである。加えて、上記と同様に現実の物質(ステージや照明等)を画面に含める目的もあるだろう。

 つまるところ、これらの工夫は、いかにスクリーン(の存在)そのものに注目をさせないようにするかを目的として採られているように思われた。

 

②バストショット

 本配信では、すいせんさんに寄った映像が多用されていた。これはスクリーンに近づくことを意味しない。その時だけ、カメラとスクリーンを通してではなく、すいせんさん本人の姿が配信上に現れる。これもメタな話だが、元ソースの映像と言えば分かりやすいだろうか。

 この時には、鮮明なすいせんさんの姿が画面上に映し出される。可愛らしくも凛々しい表情を見て心を奪われる一方で、唐突に異世界に来たような感覚に陥った。その要因は二つあると思う。一つはすいせいさんの背景だ。無機質な漆黒であり、そこに観客その他の現実世界が映り込む余地はない。すいせいさんを照らす照明は実会場のそれと連動しているものの(その意味で現実とのつながりは維持されているとは言えるものの)、その映像が「ステージ上にいるすいせいさんを映している」ものだと認識するのは難しい。

 二つ目は、すいせいさんの全身が映らないことだ。その機会がゼロではない。例えば、バイバイレイニーの時には、あたかもライブビューイング用のカメラに向けてするように、膝を曲げて手を降ってくれる姿が映されていた。しかし、それを除けば、多くはバストショットであり、その映像において、やはりすいせいさんがどこで歌っているのかがよく分からなかったのである。

 

 そう考えて、ふと思ったことがあった。私たちは、結局Vのライブ*3をどのように捉えているのだろうか。すなわち、観客はステージ上にいる演者を見ている(=現実世界に演者も存在していると解釈している)のだろうか。それとも、別世界にいる演者をスクリーン越しに見ている(スクリーンその他の設備を媒介として別世界に存在する演者を映し見ていると解釈している)のだろうか。換言すれば、その時演者は私たちの目の前に存在しているのだろうか。

 同時に、このような疑問は配信を介して視聴しているからがゆえに生じるもののようにも思われた。現地で見れば、あれこれ考えずとも、ただ壇上にすいせいさんがいる、その事実だけがあるのだろう。

 

 と、このような実感を得ながら、楽しみに待っていたのが3月18日、19日に開催された『hololive 4th fes. Our Bright Parade』だった。私がホロライブと3Dによるキャラクター表現に深く興味を持ち始めたきっかけが昨年の3rd fes.であり、以来待ち望んでいた。などと言いながら例によって配信視聴組である。

 エンタメには、観客を喜ばせるほどに、次の展開が難しくなる側面があると想う。観客の目が肥えていくからである。本来的には贅沢なオプションに違いないはずの生バンドや、一度に多数の演者を登場させるAR映像(そしてそれを現地映像と合成して配信に乗せる技術)も、前回公演を経て、半ばあって当然のものと化しており、たった一年で格段に期待という名のハードルが上がる中で、はたしてどのようなエンターテイメントが繰り広げられるのか。私は一人の消費者として、無責任に心を踊らせていたのだった。

 以下では、holo*27 stageを含む一連のライブ配信を見た、一視聴者のとりとめもない感想を記載していく。なお、開催後から本日に至るまでの間、各メンバーの配信上で裏話等が語られていることと思われるが、それらの内容については基本的に確認できておらず、またその他の理由から見当外れな記載を行っている可能性があることを先に留保しておく。何とぞご容赦願いたい。またDay1とDay2の時間軸が混在もしているため、正確なレポートはこことかここあたりを確認されたい。また、各ライブは4月19日までアーカイブ視聴が可能のため、あわせて宣伝しておく

 

*1:本稿で言う「ライブ」は現実世界で行われたものを指す。

*2:本稿では「実在性」を「本当にステージ上に存在していると感じられること」として用いている。

*3:Vに限らずプロセカやあんスタのように3Dモデルを用いたライブを含む

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2月に読んだ本など

 並んで歩いていたつもりが、いつの間にか姿を消した。2月とはそういうものである。

 以下、コンテンツの感想についてはネタバレを含んでいたりいなかったりする。

 

 

【2月に読んだ本】

四畳半神話大系

 いつ買ったのかは分からないが、いつかに買ったのだろう積読の消化である。万城目学作品と混同していた。どちらにとっても失礼だと思う。

 創作物における中学・高校生活からは、概ねはっきりと現実的でない空気を感じるのに、それが大学生活となると、多少以上におかしくとも、そう違和感を覚えないのは不思議なものである。本作のような大学生がいるか? と問われれば、普通にいるような気がするし、本作のような学生生活を送っている大学生がいるか? と問われれば、やはりどこかにはいるような気がする。会ったことがあるか? と問われれば、その経験はないのだが、思い返すと変な人は少なくなかったので、彼ら彼女らの延長線上に、こういった人たちがいるような気がするのである。読みながら一種の懐かしさを覚えるのは、そういった記憶の残滓によるものだろう。

 どのような選択をとったとしても、人生の上で出会う人々や、得られる経験はそう変わらない。言い換えれば、他の可能性なんてものは存在しない。そう考えることが救いにならない場面も多いだろうが、多少なり歳をとった今では、納得するところがある。どのような道を選んだとしても、結局自分は自分でしかないので、行き着くところは同じになるような気がするのである。もちろん、そんな風に言えるのは、比較的現在が充実しているからであって、そうでなければ納得も何もないだろう。

 途中から、明石さんとどう出会うのかが気になるようになり、それを透かし見られたかのような展開になった際には、してやられた感が強かった。この四畳半では明石さんと結ばれないのか? そんなことは許されない。そうしたところのロマンチックな結末に私もニッコリ。

 

ペンギン・ハイウェイ

 映画化した時に購入した覚えがあるが、何年前のことだろうか。そう、当時に映画版を見たのである。いい作品だった。と言いながら内容ははっきりと覚えていないのだが、とにかく爽やかだった。そんな印象だけが強く残っている。ということで初見の面持ちで読んだ。

 映像になったから爽やかになったのではなく、そもそも文章が清涼でみずみずしい。よくよく考えると、ほとんど海は出てこず(出てくるといえば出てくるのだが)、どちらかというと山のほうが身近なのに、波の音が聞こえそうな気がしてくる。波の音とというかはセミの声か。映画の画作りに引っ張られている可能性は否めないが、青い空と白い雲。日陰の涼しさと雨の湿気。そういったものが常に頭に浮かんでくる。

 お姉さんが行ってしまったあと、アオヤマくんが急に歳をとったように感じた。もともとアオヤマくんは小学生らしからぬ小学生だが、お姉さんへの恋愛感情を自認したからなのか(これは因果関係が逆な気も)、解き明かさないほうがよい謎もあると身をもって知ったからか。もとい、あれほどの経験をすれば、誰だって嫌でも成長するものかもしれない。冒頭からラストまでは140日。小学生における半年は、そのような変化をもたらすのに十分すぎる期間だろう。

 ラストの一文は、シンプルながらアオヤマくんの万感の思いが込められているようで、読み終えた際には非常に余韻があった。どうかそのまま育ってほしい。

 

ザ・メタバース

 エコシステムだけでなく、技術的側面からの課題解説が多かった印象。経済活動がどうかとか、稼げるかどうかなど以前に、現代のマシンパワーでは、多人数が同時に接続し存在する電脳世界を作るのは、まだ難しいようである。

 読んでいると、それに加えて、メタバースが滞りなく運用されるには、世界的に現状のような政情不安が解消されている必要があるように思われた。それはなんだってそうなのだが、端的には、安定したエネルギー供給が持続できなければ、そもそもメタバースを維持することは叶わない。例えば、電力供給が安定していない状況下において、メタバースのために多大なマシンパワーを用いよう、とはならないだろう。

 

 

【2月にプレイしたゲーム】

クラッシュ・バンディクー ブッとび3段もり!

 2と3をクリアした。シリーズを追うごと難化していく印象を受けた。新規性を出そうとした結果なのか。奥スクロールアクションという要素だけで戦うのは厳しかったのだろうか。

 1はダイヤをすべて取るところまでプレイしたが、2と3はそこまでしようという気にならなかった。隠れた箱を探すとか、途中まで進んで戻るとか、本来的にはそういった1ステージ内の探索を楽しむべきなのだろうが、どうしてもリプレイ性が悪く感じられた。そこに落下死等の即死要素が加わると、イライラが増してくる。特に3のバイクステージやココの海上ステージは、操作性の独特さも相まって、どうしてこのようなデザインになったのか理解が及ばなかった(ただし、乗り物の操作感はPS版から変更されているらしい)。

 プレイしていくうちに、もしこれがオープンワールド(あるいは箱庭型)であったならと思うようになった。クラッシュくんをもっと自由に動かしたくなるのである。狭い一本道のステージで色々やろうとするから無理が生じるのではないか。そう考える人が多かったからこそのクラッシュ5、またはジャック✕ダクスターだったのではないだろうか。

 

Cyberpunk 2077

 大作を買ったはいいが、プレイするのは億劫になる。なりがちである。なぜなら、それに多くの時間を費やすことになるのが目に見えているからだ。Steamのライブラリに鎮座し、いつでもプレイできる状態であるのに、なぜか別のインディーズゲーを起動することも少なくない。せっかくだからまとまった時間をとれる時にプレイしたい。しかし、そんなタイミングは待っていても訪れないし、結局何をするにも同じ時間を使うのだから、さっさと手を伸ばすのが正解である。

 オープンワールドをプレイするたびに、究極的には、自分がFallout3またはNVの面影を追いかけているのだと気付かされる。つまるところは、ストーリーとその世界に引き込まれるかどうかで、システム面はあまり気にならないが、本作においてはその点も特に不満はない(動作が不安定なのは困るが)。

 ジャッキーの存在によって没入感が非常に高まった。特にオフレンダへの出席。思い出の品を探し、彼のために一杯をあおる。店内の雰囲気は物悲しくも個人を懐かしむ人で賑わい、本当に親しい人の葬式に来たようであった。

 メインストーリーはそれほど長いわけでもないようで、年度が空ける前にはクリアできそう。サイドクエストまでやり込むかはわからない。

 

【その他】

TOEIC

 最後に受けたのがおよそ4年前と古く、なんとなく見てくれが悪かったので受けることにした。これぐらい時間が経つと、公式サイト上で過去のスコアは見れなくなるようだ。証明書がなければスコア証明もできないのである(当たり前である)。

 結果はL:420 R:400の820。4年前はというと、このLRが逆だった。換言すれば何も変わっていないということだが、日常的に英語を使う環境にはいないことからすると、維持できているとも言える。成長していないとも言える。

 スコアを向上させたからといって、実際の英語力と特段相関しないのはよく知られているとおりだが、せっかくなので860ぐらいにはしておきたい気持ちもあり、久しぶりに集中的に試験を受けることにした。しかし、受けることにしたからといって、準備ができるわけではない。試験日は、もはや行ったことのない大学に行く日と化している。

 

「あたしたすかる」の理論(後で書くかも)

「○○たすかる」というネットミームはもともとRTA界隈から出てきたものらしいが、一時より「くしゃみたすかる」の用法がそれなりの地位を占め、その後さまざまな使われ方をしている言葉であるように思われる。

 VTuberの配信(ただし、私はほぼホロライブしか見ていないので、これは主語がでかい)において、視聴者より「あたしたすかる」とのコメントが流れることがある。これは、配信者が「あたし」ないしは「わたし」と自称したときに生じるコメントである。

 VTuberは、そのキャラクタ性に応じた自称を行うことが多い。単に自分の名前呼びであったり、あるいは「余」であるとか、「わたくし」であるとか、種類はさまざまである。

 その前提で、時たまシンプルに「わたし」と自称する場合がある。このような場面において、チャット欄には「わたしたすかる」とのコメントが流れることとなる。

 しかし、このとき視聴者は何にたすかっているのだろうか。配信者が素を出したことか。それともハプニング性自体なのか。そもそもVTuberにおける「素」とは何か。これは、VTuberと人間との関係性を考えるにあたっての一つの観点であり、論点になりうる。

 

「我々の世界ではご褒美です」と言われる時の「我々」に私が含まれることはない

 趣味と嗜好が違う。

 しかしそうしてコメント欄に打ち込んでいる人々も実際は「我々」に含まれていないのではないか。本当に「我々」は存在するのか。と考えるのは、自分の視野の狭さを露呈するのに等しい。どこかにはいるし、どこにでもいるはずだろう。

 

VTuberライブ配信におけるカメラワークについて(後で書くかも)

 星街すいせいさんのライブ配信を見た。

suisei2ndlive.hololivepro.com

 カメラワークについて興味深く思ったのでメモをする。

 そもそも、AR映像を用いないライブ配信の最適解はまだないのだと思われる(言い換えると、AR配信が最適解ということになるか。ただし、私はライブ配信をよく見ているわけではないので狭い視野による感覚でしかない)。カメラがステージに近づくと、そこにスクリーンがあることがあまりに明確になってしまう。カメラ越しに見るスクリーンは平面さが強調され、映像自体も若干不明瞭であり、「そこにいない感」が強まる。

 そこで、本配信ではすいせんさんのアップ映像が多用されていた。ここで言うアップとは、スクリーンに近づくことを意味しない。その時だけ、カメラを通してではなく、すいせんさん本人の3Dが配信上に現れる恰好である。元ソースの映像と言えばわかりやすいだろうか。

 この時には、明瞭なすいせんさんの姿が画面上に映し出される。しかし、その背景は無機質な漆黒であり、観客その他の現実世界が映り込むことはなく、そのせいなのか違和感があった。つまり、その映像からは、すいせんさんがステージ上にいるとは認識できないのである。

 このような画作りとバランスをとるためか、観客席の中からの画角も多かった。前の席の観客の頭や、ペンライト越しにステージを見る。その時、ステージ上にすいせいさんは間違いなくいるのである。

 いずれも、現地で見ればあまり気にならないことのようにも思うから、次の機会にはチケットがご用意されるように準備をしよう。