死に物狂い

他人から影響を受けやすい人間のフィクション日記

例えば歯を磨き始めてすぐに腹痛に襲われたとして

 一体どうするかって話なんだ。人生ってそういうもんだろ。

 

 腹痛というのは何がきっかけで生じるのかわからない。いや、これは不正確な表現だ。正しくは「わかって」いる。家を出たら。電車に乗ったら。それまでは何ともなかったのに、突然腹の具合がおかしくなる。まるで狙っていたかのように。どうせ痛くなるのだったら、もう少し早くしてくれよ。そう言ったところで腹痛自身はどこ吹く風である。

 ただ、唐突に痛くなるのも、それで途方に暮れてしまうのも、基本的には外出時の出来事である。室内、特に家の中で困ることはそうない。なぜならば、トイレ(さらに言えばきれいなトイレ)を探す必要がないからだ。自明である。

 ということで夜更け、歯ブラシに歯磨き粉をつけた時分である。さあ歯を磨こうぞと、先端を口に入れた矢先、どうしようもない腹痛が襲ってきた。もし外だったならば、とうとうはてな匿名ダイアリーのお世話になってしまうのかと、絶望的になる程度の痛みである。

 しかし、私が今いるのは安息の地こと自宅であるから、歯を磨くのをやめてトイレに行けばすべてが解決する。いたって簡単なはずである。ところが、問題は、今私がまさに歯を磨こうとしている状況にある。端的には、尻を拭いた後の手で歯を磨くというのは、何かこう憚れるではないか。

 いや手は洗えよ、と仰る御仁がいるとすれば、そりゃ手は洗いますともと答える。こんなご時世ですから、余計にね。しかしそういう話ではないのだ。歯を磨くとは一言で言っても、単にブラシで歯をなぞるだけではない。フロス・歯間ブラシの使用ともなれば、手を口の中にがっつり突っ込むこととなる。石鹸で洗い流したからとて、アルコールを蒸発させたからとて、どこか憚られるではないか。これこそ、古来日本に言い伝えられる「穢」の概念である。かどうかは知らないが、私の精神がその行為を拒否するのは事実であるから、採れる選択肢は一つしかない。すなわち、腹痛を我慢して歯磨きに係るすべての工程をやり切るしかないのである。

 勝算はあった。痛みが収まりつつあったからだ。波が穏やかなうちに、事を終えてしまえばよい。いつもやっていることだ。生理現象としての腹痛は常に流動している。祈っているうちに嵐が去ったら、神に感謝し次の嵐の備えを行う。敬虔な教徒に神は味方する。トイレには神様がおるんやで。

 そうして歯ブラシを口に入れた瞬間、痛みの波が急に激しくなった。これもいつものことである。神なんてものは結果論だ。脳によって尻穴を制御し、腸の反射的な収縮運動を抑えられるかどうか。すべては電気信号にかかっている。神がいるとすれば、それはトイレではなくドラッグストアの棚にだろう。

 とはいえよもや歯磨き開始1秒で耐え難い腹痛に見舞われるとは思っていなかった私の頭に、歯ブラシを置いてトイレに行くという、いたって合理的な考えがよぎった。誰に聞いてもそうすべきと答えるだろう。苦しみながら歯を磨く必要性など、どこにもないからである。なお、トイレで歯を磨く選択肢はない。なぜならやはりこれも憚られるからだ。

 加えて言えば、痛みに気を取られて、磨きが不完全になる可能性もある。これでは本末転倒である。万全の体調のもと、ていねいに一本一本磨いていく。それこそが歯磨きの目的ではないのか。

 正論である。しかし、この正論に与するには一つ問題が生じていた。私はすでに歯ブラシを口の中に入れてしまっている。しかも歯磨き粉をつけて。歯磨き粉をつけてかつ一度口内に入れた歯ブラシを、一旦口外に出し、一定時間放置した後に、再度口内に入れるというのは、何かこう憚れるではないか。

 またか、と思われるかもしれない。私も同感である。補足すると、歯磨き粉がついていなければ気にならないのだが、ついていると気になる。この感覚が1/3も伝わるかどうか怪しいが、ついているのといないのでは大きな差があるように思うのである。

 では一度歯ブラシを洗えばよいのではないか。そして再び歯磨き粉をつければよいのではないか。しかしここにも重大な問題がある。この行為は、現在の歯ブラシ上に残る、まだ使える歯磨き粉をみすみす捨てることになるのだ。それもまた、何かこう憚られるではないか。

 あまりにも自縄自縛が過ぎるが、自分で埋めた結果としての八方塞がりにおいて、結局私にできるのは、腹痛を我慢して歯を磨き切ることだけなのだった。そう気づいた私は意を決して歯を磨き始めた。口内と直腸は繋がっているのか、歯茎への刺激がすべて腹部へと響いていく。磨けば磨くほどに腹痛は増し、絶望的な状況は苦行を超えた何かへと化していく。それでも耐えられているのは、つまるところ、行こうと思えば行けるからだろう。もちろんトイレに。

 

 

 良くも悪くも、人は耐えることができてしまうものだ。しかし、それはいざというときの逃避先があるからではないか。家の中のトイレのように。それだけセーフティネットは社会において重要な存在なのだ。無事に歯磨きの全工程を終えた私は、便座に座りながら考えていた。

 手を洗い、ベッドに潜る。一日の終わりに、何とも哲学的な腹痛を抱いてしまった。逡巡もそこそこに思考を停止する。明日も仕事なのだ。いつまでも思いを馳せるわけにもいかない。しかし、ある違和感によって寝付けない私は、再び考えてしまうのだった。

 

 例えばベッドに入ってすぐに腹痛に襲われたとして、一体どうするかって話なんだ。人生ってそういうもんだろ。

 

『終わらない週末』を読んだ

『終わらない週末』を読んだ。以下、作中のネタバレを少しばかり含む。

 

 

 読む人によって評価が割れそう、という感想は多くの人が抱いているらしく、また実際に割れたそうで、その理由は解説でまさに解説されている。端的には、世界の謎が明らかにならない。何かが起こっていて、それが何であるのかが断片的に示唆されるが、直接的に説明はなされない。そのせいでモヤっとする。

 加えて言えば、本作は、通常なら起こりそうなパターンを少しずらし、結果として、読者が予想していた事態が生じないので、フラストレーションが溜まるのではないかと思った。例えば、別荘を借りて休暇を満喫中の主人公家族のもとを訪れた謎の来訪者は、謎でも何でもなく当該別荘の所有者夫婦であり、特段両者間で騒ぎが起こるわけでもない。近くの森に入って、危険な存在に遭遇しそうだなと思い読み進めると遭遇しない。ことが起こりそうで起こらない。その代わりに繰り広げられるのは、各登場人物の人間的なややこしい心情描写と、やけに生々しい身体的描写であり、肩透かしを食らってしまう。

 さらに言うと、私の場合には、本作のテーマを取り違えていたことも原因にある。そもそも「終わらない週末」と聞いてループモノを思い浮かべていた。しかし本作はループしない。原題の意味の取り方はよく分からないが、世界(で生じた出来事)から取り残されている(状況についての物語)と理解すると、そう外れていないと思われる。

 世界で何かが起こっている。最初は半信半疑で、自然災害か、はたまた戦争かと考えては、考えすぎだと否定する。外界から情報を得る手段がなく、しかし外界へ足を運ぶことも憚れる。意を決して赴くが、何も収穫がない。そうしているうちに、明確に認識できる異変が生じる。その異変の正体はやはりわからないのだが、身体にも影響が出始め、何もわからない中でありながら、何もしないわけにはいかなくなる。しかしながら、できることは少なく、したからといって解決する保証はない。

 謎解きがメインではなく、情報が遮断された状況において(それでいて何か大きな事件が起こっているのは事実らしいとして)人間は何ができるのか。できないのか。本作はその過程を描いた物語である。動かないことが最も安全であるように感じる一方、本当にそれでよいのか、いくらでも疑念が付きまとう。しかしながら、結局どちらがベターな選択なのかを「安全に」確かめるすべはなく、いざと動いて確かめられた時には、もはや危機から逃れらない状況に陥っているかもしれない(そうして言うまでもなく、何もしなくても死地に近づいている可能性がある)。ある種の極限状況において、一体どうすればよいのか。登場人物の行動にイライラしたり共感したりする。

 言い換えれば、それだけ読者の感情は動かされており、すなわち本作は面白い……と思うのだが、私を含め、多くの人はテーマ(または構成)を勘違いして読み始める・読み進めるようにも思われるので難しい。あらすじで、もう少し、どういった要素に焦点を当てた物語なのかについて言及すれば、多少はマシになるだろうか。

 雰囲気としては『10 クローバーフィールド・レーン』に近いかもしれない。ただし、ラストで答え合わせはない。敵国から新型兵器で攻撃を受けたのか。巨大ハリケーンによる影響か。宇宙人による攻撃か。世界(少なくともアメリカ国内)にパニックが生じているのは事実らしいが、分かるのはそこまでである。それは本作において本論ではなく、ゆえに明らかにされないのだろうが、そうだと知るのが読み終えた時なので、読み始めの心持ちとのギャップが困る。本作が提供するのは、そこまで含めた読書体験なのだと言われれば、そうなのかもしれない。